少年漫画と連続ラジオドラマ
山笠やどんたく、屋台などでも知られる博多の町には、空襲の焼け跡が残り、広っぱ(広場、空き地)には子どもたちがやってきた。食べるものは限られていたが、刀に見立てた棒切れを手に夢を見て遊び回っていた。町の本屋さんには、立ち読みの子どもたちがいた。武内つなよしの「赤銅鈴之助」、手塚治虫の「鉄腕アトム」「リボンの騎士」、横山光輝の「鉄人28 号」が人気漫画だった。雑誌「少年」では、堀江卓の 「矢車剣之助」が、果てしなく撃ち続けることのできる短銃を手に大活躍して いた。福井英一の柔道漫画「イガグリくん」、高野よしてるの剣道漫画「木刀くん」も人気者だった。夢を見る、悪と戦う正義の少年にあこがれていた。真空管ラジオからは、「少年探偵団」「赤銅鈴之助」などの連続ドラマが流れてきた。「千葉さゆり」の声を担当していたのは吉永小百合だった。その後、押しも押されもせぬ人気女優になるなど誰が想像しただろうか。
町にあふれる子どもたちの笑い声
家の前の道も、子どもの遊び場だった。まだスピードを出して走る車は広い大通りに見かけるくらいで、ほとんど走っていなかった。太郎飴という屋号で、もち飴を製造・販売していた父母たちの店の前は、昔ながらの木れんが敷きの道で、そこに小型トラックが来ると、狭い道をゆっくり走る車の荷台にぶら下がって、遊ぶことができたのだった。店の隅、畳二枚ほどの板張りで家族が食事をしていると、道を通る人から、よく声がかかった。「どげん、しよんなるな(どうしているの か)」と。「個人情報」は開けっぴろげの暮らしだった。馬車の通った後の道には、馬糞が落ちていて夏休みの宿題の朝顔栽培の底肥にしていた。
その道路で、パッチン(メンコ)もしていた。パッチンは、板の上に10銭アルミ貨を置き、その上にパッチンを何枚も重ねて、テシと呼ばれた自らのパッチンを使って、その中の10銭貨を押し出す遊びだった。
寺の境内では、ラムネ玉(ビー玉)、 クギ刺しなどをして遊んだ。ケンケンパーは地面を区画して、その目標の区画に向けて投げた石ころを、片足で跳んだりしながら取りに行く遊びだった。信仰の場なので、寺の女性が怒って駆け付けてきていた。そんな時は「鬼婆が来たぁ」と、大きな声を上げてみんな必死で逃げていた。捕まると、小学校へ連絡がいくのである。
町には、空襲の被害拡大を防ぐために強制疎開(立ち退き)が行われ、その跡地の広場も残っていた。そこにやってきていたのが、木桶の輪替え屋さん、鍋釜の鋳掛屋さん、下駄の歯替え屋さんだった。目の前でモウソウ竹を割り、それをくるくると木桶に巻き付けていったり、穴の開いた鍋にビスのようなものを打ち付けて補修したりする「仕事の現場」をいつまでも飽きずに見入っていた。下駄の歯の下に、古いゴムチューブを切り取って張り付 けていたのは、下駄の歯がすり減るの をカバーするために、だった。モノが 手に入りにくかった時代、生活道具を大切に、ていねいに使い続ける暮らしの風景が子どもたちの前にあったのである。