文=萩原朔美
雑誌¿Como le va? vol.21 表紙・早田雄二写真シリーズ第1弾
崇高なまでの美しさから、〝永遠の処女〟と謳われた原節子。
小津安二郎監督のヒロインをはじめ、日本映画史に残る数々の作品に出演し大女優となるも、1962年の映画『忠臣蔵』を最後に42歳で引退し、その後は一切公の場に姿を見せることがなく、〝伝説の女優〟とも称される。
だが、引退して50年以上を経た今でも、映画女優ベストテンなどの企画では、必ず上位に位置し1位であることも珍しくない。
日本映画界の神話の中にいることで、永久に人々の心と記憶の中に刻まれる存在となったのだ。
原節子は日本映画界が生んだ最大のスター女優なのである。
写真家早田雄二氏の写真で伝説の女優の崇高な美しさを紹介しよう。
品性をまとった女優
「品行は直せても、品性は直らないもの」
映画の中で、原節子が言ったセルフだ。まったくその通りだと思う。品行の悪さはなんとか隠しようがある。ねこかぶりしてごまかすか、お酒など飲まずに黙って大人しくしていれば何とかなる。
しかし、品性はどうにもならない。黙っていても、話をしていても、起きていても、寝ていても、座っていても、歩いていても、湯上がりの匂いのように、自然に滲み出てくるものだからである。なにか生まれ持った資質のようなものが生成させる、心地よい香なのである。
このセリフを、原節子以外の女優で誰が言えるのだろうか。ふとそう考えて愕然とした。すんなりと、リアリティのある生きた言葉として口に出せる役者が思いつかないのだ。なんということだろうか。みんなセリフと表情とがかけ離れてしまう。雰囲気と言葉が噛み合わないのだ。
ということは、あのセリフは原節子の口から発せられたからこそ、何時までも忘れられない言葉となって生き続けるのではないか、ということなのである。
今でも、演技の勉強をする現場で、教師は
「どんな役柄であっても演じることが出来る役者を目指しなさい」
と、叱咤激励する。そして、女優志望の若い子に老婆の役をふったり、床が硬いリノリュウムなのに、砂浜やぬかるみを歩く演技をさせたりするのだ。
しかし、本当は教師も知っているのである。どんな名優であっても、演技では越えられない役柄が厳然と存在する。言わば、その人しか生み出せない、味のような、雰囲気のような、存在感のようなものが、身体表現の現場には厳しい現実として聳(そび)え立っているのである。原節子という女優を思い浮かべると、品行という役は誰でもが努力によってなんとかなる。しかし、品性という役は勉強しようが稽古を重ねようがどうにもならないことがはっきりと分かるのである。演技という魅力的な魔物がもつ厳しく鋭利な牙の前では、才能も能力も稽古も勉強も全く無力なものである。誰もが魅了させられる原節子の魅力は、代役のない孤立が醸し出す寂寞とした孤独感なのだろう。
不可侵の領域にある女優の佇まい
この、演技では越えられない個性を一言でいうと、佇まいとまいということになるかも知れない。スクリーンに現れた時、その佇まいがすでに多くのセリフを発している。それは綺麗なシンメトリーの顔が描き出す、繊細な含蓄のほほえみや、憂いを含んだような鼻に共鳴させたような声のトーンから生み出されるのか、あるいは広いおでこや大きな輝く瞳から発生するのかは分からない。
そんな佇まいの女優を、当時の監督はどういう視線で見ていたのだろうか。小津安二郎監督の『秋日和』で原節子の娘を『小早川家の秋』では、義理の妹を演じた司葉子がこんなことを言っている。「小津さんは原節子がお好きだったんですか」と聞かれて
「大好きだったと思います。『小早川家の秋』の撮影中は、小津先生は宝塚の旅館、私たちはホテルに泊っていました。でもリハーサルがあったので、先生たちと夕食が一緒だったんです。その時、原さんを小津先生の隣にすわらそうとしたら、先生は真っ赤になられて(笑い)」
『秋日和』のセット撮影を見学した評論家の佐藤忠男もこう書いている。
「─ベテランの名優たちが小津の指示でコチコチに固くなっているのに、原節子だけがひとり、ゆったりとした自然体と思える姿でそこにいたことである。小津安二郎は俳優たち全員をあやつり人形のように動かすが、なかにひとりだけ、自由にさせておく俳優がいる、という伝説があり、ここでは正に原節子がそれだ、と感じたものである。」
原節子の佇まいは、巨匠と呼ばれた監督ですら不可侵の領域として存在したのである。巨匠ではない私たちが、映画の中の原節子に溜息を洩らすのは、当然のことなのである。
引用文献『原節子』キネマ旬報社
『殉愛 原節子と小津安二郎』 西村雄一郎 新潮社
「原節ちゃんは、それはきれいな人でした。
あんなきれいな女優さんはもう出てこないんじゃないですか。
しかも美人特有の気取ったところがない。
明るく、気さくで、人間的な人でした」
───────── 早田雄二(写真家)
はら せつこ
1920 年、現在の横浜市保土ヶ谷区生まれ。35 年に『ためらふ勿れ若人よ』で映画デビュー。デビュー2 年目の日独合作映画『新しき土』のヒロイン役に抜擢され話題になり銀幕のトップ女優の仲間入りを果たす。戦後は黒澤明監督の『わが青春に悔なし』を経て49 年に『晩春』で初めて小津安二郎監督と組み、以後、小津映画を代表するヒロイン女優となる。同年、『晩春』『青い山脈』『お嬢さん乾杯』の演技で毎日映画コンクール女優演技賞、51 年には『めし』『麦秋』で毎日映画コンクールとブルーリボン賞主演女優賞を受賞している。62 年『忠臣蔵』を最後に引退する。『河内山宗俊』『母の曲』『田園交響楽』『ハワイ・マレー沖海戦』『安城家の舞踏会』『白痴』『東京物語』『山の音』『ノンちゃん雲に乗る』『驟雨』『婚約三羽烏』『女囚と共に』『兄とその妹』『大番』『東京暮色』『女であること』『日本誕生』『娘・妻・母』『ふんどし医者』『秋日和』『小早川家の秋』のど多くの映画出演作がある。2015年死去。享年95。
はぎわら さくみ
エッセイスト、映像作家、演出家、多摩美術大学教授。1946 年、東京生まれ。祖父は詩人・萩原朔太郎、母は作家・萩原葉子。67 年から70 年まで寺山修司主宰の演劇実験室・天井棧敷に在籍。76年には「月刊ビックリハウス」を創刊、編集長になる。主な著書に『思い出のなかの寺山修司』『演劇実験室・天井棧敷の人々』『毎日が冒険』『小綬鶏の家』(母・萩原葉子との往復書簡)、『死んだら何を書いてもいいわ 母・萩原葉子との百八十六日』『劇的な人生こそ真実・私が逢った昭和の異才たち』などがある。