1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。
『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。
テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。
この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。
[第1回] すべては『南極物語』から始まった
1981年4月、大学卒業と同時に22歳でフジテレビに入社した。
当時日曜の「競馬中継」をほぼ独占的に放送していたフジテレビの面接で「自分ならこういう競馬番組にしたい!」と何度も熱弁し、ほぼそれだけで内定になった。若干35歳で副社長になった鹿内春雄氏がメインの面接者で、彼の方針で選ばれたと、後で本人から聞いた。しかも筆記試験だと落ちそう、と判断され免除になった。
当時、フジテレビの視聴率は民放4位で、東京12チャンネル(現テレビ東京)にひたひたと近寄られていた。皮肉にも40年以上経た現在の状況に近い。
当時の日本映画界は、メジャー配給・製作会社でもある3社(東宝・東映・松竹)が中心の製作体制が崩れつつあった。角川映画が『犬神家の一族』(1976)でヒットを飛ばしてからは、宣伝力や、本が売れるという、それまでとは違う宣伝の形で認知力を上げ、ビジネスにも直結(その後2次使用などと呼ばれる)する新たな製作体制に移行しつつあった。まだ、VHSビデオのレンタル時代が始まる数年前の事である。
いきなり「編成局映画部」に配属された。自分は「競馬」一本で入社したので「スポーツ局」のような所へと予想していたが、全く違うセクションだった。幸い「競馬」好きとともに、映画を観ること(当時は劇場でのみ)は好きだったが。
この部署が「ゴールデン洋画劇場」という土曜日夜9時からの放送枠を担当しており、そのラインナップを編成するのがメインの仕事だった。高島忠夫さんが毎回冒頭で映画紹介をするコーナーの撮影を行ない、2時間の枠(正味は1時間35分程度)に映画を編集したり、殆どの映画は日本語吹き替えなので、それもやることになった。この枠を担当したことでその後の自分の映画製作、あるいは多くのテレビ局が映画製作に参入することになるきっかけになったことは、ずいぶん後で改めて認識することになった。