1932年、東宝の前身である P.C.L.(写真化学研究所)が
成城に撮影用の大ステージを建設し、東宝撮影所、砧撮影所などと呼ばれた。
以来、成城の地には映画監督や、スター俳優たちが居を構えるようになり、
昭和の成城の街はさしずめ日本のビバリーヒルズといった様相を呈していた。
街を歩けば、三船敏郎がゴムぞうりで散歩していたり、
自転車に乗った司葉子に遭遇するのも日常のスケッチだった。
成城に住んだキラ星のごとき映画人たちのとっておきのエピソード、
成城のあの場所、この場所で撮影された映画の数々をご紹介しながら
あの輝きにあふれた昭和の銀幕散歩へと出かけるとしましょう。
今回も、新東宝映画がいかに近場の祖師谷や成城界隈でロケを行っていたかを紹介してみたい。と、その前に、新東宝撮影所についてはあまりご存知ない方も多いと思うので、まずは、その全景図(50年代後半)を掲載させていただく。
当地図は1956年から七年間、新東宝で小道具等の仕事に携わった佐藤袈裟孝さんに取材して、作成したもの。正門近くの第1~3ステージ等は「東宝第二撮影所」時代の施設を受け継いだものだが、‶マンモス・ステージ〟の第4ステージは新東宝になってから建てられた新施設であるという。
1959年5月の日曜には第2ステージから出火し、第2・第1ステージから本館までの横一列が全焼する火災が発生。この日、佐藤さんはその真っただ中にいて、すべてを目撃している。当撮影所には東宝や日活と同様、パーマネント銀座オープンの「新東宝銀座」があっただけでなく、時代劇専用のオープンセット(武家屋敷と長屋に分かれていた)まで備えられていたとのことだから、かなりの規模を有する撮影所だったことが分かる。正門付近に置かれた戦争映画の大道具(軍艦など)は、道路(荒玉水道道路=都道428号)から丸見えで、長く戦艦大和のオープンセットが残っていたそうだ。
現在の日大商学部キャンパスは、新東宝の敷地の約半分とその南側の土地につくられたもので、裏門の辺り(撮影所東側)は新東宝倒産後、テレビドラマを手がける国際放映となり、現在でも東京メディアシティとして存続している。