—老体からは逃げられない。でも笑い飛ばすことは出来る—
萩原 朔美さんは1946年生まれ、11月14日で紛れもなく77歳を迎えた。喜寿、なのである。本誌「スマホ散歩」でお馴染みだが、歴としたアーチストであり、映像作家であり、演出家であり、学校の先生もやり、前橋文学館の館長であり、時として俳優にもなるエッセイストなのである。多能にして多才のサクミさんの喜寿からの日常をご報告いただく、連載エッセイ。同輩たちよ、ぼーッとしちゃいられません!
連載4回 キジュからの現場報告
私と出会った人は、私を置いてけぼりにして、みんな大人物になる。どうやら、私は「あげMAN」なのだ。(笑)
27歳の時、大阪で映画のロケに参加した。田中登監督の日活ロマンポルノ。私は、宮下順子さんと同棲している男。ラブシーン無し。最後は爆死する情け無い役。(なんと、名画として今年カンヌ映画祭で上映された)
宿泊していた釜ヶ崎の宿屋に高校生が訪ねて来た。
「8ミリで映画を作ったから観てくれ」
と言うのだ。芦屋の自宅で8ミリ映画を観た。劇映画のパロディだった。「作り続けるといい」と励ました。その高校生はやがて大森一樹監督になった。
六本木にあったジュン画廊で初めて版画個展をやった時、高校生が8ミリ映写機を持って訪ねて来た。映像作品を作ったから観てくれと言う。カラフルな抽象動画だった。やはり「作り続けるといい」と言って別れた。その高校生が慶應義塾大学教授や東京藝術大学教授になり、世界で活動するメディアアーティストの藤幡正樹になった。
私の最初の自宅は、世界の建築家伊東豊雄だし、その家の現場担当者は妹島加世だ。芥川賞作家になったとか、詩人とか名前あげたらきりがない。
三浦雅士と呑んで、何軒目かに「小説書いてるマスターのバーに行こう」と夜中行ってマスターを紹介されて知り合った。彼は村上春樹になった。新宿のジャス喫茶ビザールで、ボーイのバイトをしていた時の先輩は北野武になった。彼の本『みんなゴミだった』に、新宿に萩原朔美がうろうろしていたと書かれていた。(笑)
みんな手の届かない、遥か川向こうに行ってしまった。
取り残された私は、対岸を目指して舟を漕ぐ気など一切なく、こちら側で怠惰に遊び暮らしている。(笑)
なんといっても、私は自分に期待しない。もちろん家族にも期待しない。期待すれば失望しか待っていない。期待しなければ、相手の少しの気配りが奇跡にすら思える。(笑)自分に期待していないから、今の自分に満足出来るのである。
第3回 片目の創造力
第2回 私という現象から脱出する
第1回 今日を退屈したら、未来を退屈すること
はぎわら さくみ
エッセイスト、映像作家、演出家、多摩美術大学名誉教授。1946年東京生まれ。祖父は詩人・萩原朔太郎、母は作家・萩原葉子。67年から70年まで、寺山修司主宰の演劇実験室・天井桟敷に在籍。76年「月刊ビックリハウス」創刊、編集長になる。主な著書に『思い出のなかの寺山修司』、『死んだら何を書いてもいいわ 母・萩原葉子との百八十六日』など多数。現在、萩原朔太郎記念・水と緑と詩のまち 前橋文学館の館長、金沢美術工芸大学客員教授、前橋市文化活動戦略顧問を務める。 2022年に、版画、写真、アーティストブックなどほぼ全ての作品が世田谷美術館に収蔵された。