1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。
『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。
テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。
この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。
フジテレビ→ポニーキャニオン→アミューズと渡り歩いて、映画会社で映画製作をやりたい気持ちが強くなっていた。当時、上場会社でもあるGAGA(ギャガ・コミュニケーションズ)が新経営陣になることで、依田巽会長と宇野康秀社長から声をかけていただいた。依田会長の前職はエイベックス会長。その後、僕がGAGAを離れる頃は東京国際映画祭(TIFF)のチェアマンで、僕は、暫くTIFFのアドバイザーを仰せつかった。現在のGAGAは依田さんが率いてきた。
宇野社長は、USEN代表(現取締役会長)であり、現在もU―NEXTの代表(創立者)として精力的に活躍している。『スワロウテイル』(1996)が大好きで、当時、新木場の日本最大規模と言えるスタジオコーストのクラブ<ageHa(アゲハ)>を作る時に、『スワロウテイル』のヒロイン「アゲハ」(伊藤歩)から名前を決めたことを本人から教えてもらった。
フジテレビを辞めて転籍も考えていたが籍をおかしてもらい、GAGAの「執行役員映画製作部長」の肩書でスタートすることになった。
気持ちは、はやっていたが〝組織内個人プレー〟はあまり許されず、仮にも執行役員なので、人事的な役割(権限)もあり、組織全体をまとめながらの仕事になった。宇野社長からは「これからはネットの時代!」とのことで、Gyaoの立ち上がりにも参加した。地上波にとって「ネットメディア」は既得権益を侵す敵? で、ドラマなど一切Gyaoには提供してもらえなかった。音事協グループ(芸能事務所系)やジャニーズ事務所(当時)も同様でタレントを出してくれず、グループ外のオスカープロモーション等、一部が協力してくれ、オリジナルドラマなど作った。ミッドタウン内にあるGAGAのスタジオからは「森田一義アワー 笑っていいとも!」のように独自で生配信も行い、自分も出演したりした。20年前は、まだネットフリックス等もなく、〝ドラマは地上波で〟の独占状態だった。地上波は免許事業でもあるが、当時のネットや配信は〝無法地帯〟的な捉えられ方をされ、動画はおろか、ジャニーズのタレントの写真でさえ長い間、掲載すら許されなかった。
今思うと、Gyaoは画期的だったのだが、スタート時期が早すぎたのか。僕がGAGAを去って(宇野社長もその後退任された)GyaoをYahooに売却したことを知った。それから、再びU―NEXTを立ち上げ、今日に導くパワーには敬服するほかない。U=宇野(UNO)の意であり、宇野の次(NEXT)の一手がU―NEXTなのである。
この件の延長線上に、その後のフジテレビやTBSの株買収問題が起こることになる。ある意味で地上波の現在の芳しくない状態は、この時に予見されていたのだろう。今は「TVer」はじめ、地上波も配信に力を入れているが、アメリカや韓国と比べてもイノベーションとしては手遅れになった感は否めない。
GAGAに行って、数か月後に10本前後の製作映画を数百人の関係者、記者を集めて発表した。残念ながらその中からは半分くらいの映画しか創れなかったが。
GAGAは元々、「洋画配給会社」で邦画に関しては主に「Vシネマ」的な小さいサイズでビデオリリースものがメインだった。そこに、いきなり1年で10本の新作映画をメジャー展開するというのは、今考えると無謀だった気がする。確かに企画はたくさんあったが、GAGA内にはメジャー邦画の経験者はほぼいなかった。結局、洋画の宣伝プロデューサーを中心に映画製作チームを作り、外部の製作会社・プロデューサーとの共同作業になった。
3年程度しかGAGAにはいなかったのだが、僕の戦略不足は否めなかった。海外との合作等、チャンスは幾つかあったが、モノに出来なかった。僕がGAGAを出てから、GAGA&アミューズ&フジテレビで『そして父になる』(2013/是枝裕和監督/福山雅治主演)が製作され、カンヌ映画祭で審査員賞をもらえたことは嬉しかった。
GAGAは今でも好きな会社だが、当時、10本程度の映画に関わったものの大ヒット作は残念ながら作れなかった。
ただ『初恋』(2006/塙幸成監督/宮﨑あおい主演)は思い出深い。