チェーン展開のセルフカフェスタイルの店が主流となり、喫茶店がひところよりずいぶんと少なくなった。
以前は必ずといっていいほど登場していたテレビドラマからもその姿が消えつつある。
学生街の喫茶店は、講義をさぼってお喋りしたり、文庫本を読んだりと、いつも学生たちのたまり場だった。
それぞれに行きつけの喫茶店があって、一日一回は必ず顔を出したものだ。
オフィス街の喫茶店では、仕事の打ち合わせをしたり、息抜きをするサラリーマンや仕事帰りにデートの待ち合わせをしているカップルの姿が見受けられ、商店街の喫茶店は、近所の店の主人たちが毎日のように集まり町内の寄り合いになっていた。
そんな風景も今は懐かしいものになった。昭和は喫茶店が輝いていた時代としても語られる。
喫茶店
お茶でも飲みましょう
文=川本三郎
昭和の風景 昭和の町 2012年7月1日号より
喫茶店は町の応接間
町の小さな喫茶店が輝いていた時代があった。
恋人たちの待合せ、学生たちのお喋り、会社員の息抜き、あるいは仕事の打合せ。
広い家に住むことが難しい都市生活者にとっては、喫茶店は客間や居間、書斎の役割をはたし、そこから西洋のカフェとはまた少し違った独特の喫茶店文化が生まれていった。
小津安二郎監督の『麦秋』(51年)では、丸の内のオフィスでタイピストとして働く原節子がよく喫茶店を利用している。
友人の結婚式に出た帰り、友人の淡島千景らと銀座あたりの喫茶店に入り、結婚談議に花を咲かせる。若い女性たちにとって喫茶店は町の応接間になっている。
また別の場面では、原節子は戦争で死んだ兄の親友の二本柳寛と、御茶の水のニコライ堂が見える喫茶店に入る。コーヒーを飲みながら、二本柳寛は「お兄さんとここによく来た、店は昔と少しも変っていない」と学生時代の思い出を語る。戦前、学生たちにとってすでに喫茶店がたまり場だったことが分かる。まさに学生街の喫茶店。
流行歌に歌われ映画に描かれた恋人たちの喫茶店
昭和四年(1929)に大ヒットした歌「東京行進曲」(西條八十作詞、中山晋平作曲)の四番は、新宿を歌って「シネマ見ましょか。お茶のみましょか」とある。新宿の映画館で映画を見ようか、それとも喫茶店に入ろうか、恋人たちが話し合っている。昭和のはじめにもう東京の町に喫茶店が溶け込んでいる。
大正三年(1914)銀座生まれの国文学者、池田弥三郎の回想記『わが町銀座』(サンケイ出版、78年)によると「お茶でものみましょう」は、昭和初年くらいから流行った言葉で、「ちょっと喫茶店に入って休んで行こうか」といった意味で使われたという。
喫茶店のはじまりは諸説あるが一般には、明治四十四年(1911)に銀座に出来た、カフェープランタンとカフェーパウリスタが最初といわれている。
当時は作家や画家たちの行くところだったが、関東大震災後、東京がモダン都市として再生してゆくなかで、都市生活者には欠かせない場所になっていった。
『東京百年史』(東京都、ぎょうせい)によると、「東京行進曲」がヒットした昭和四年の東京市内の喫茶店の数は千五百余軒。それが毎年のように増え続け、太平洋戦争が始まったあとの昭和十七年には三千五百余軒と戦前の最高を記録する。
昭和十年には「小さな喫茶店」(瀬沼喜久雄作詞、F・レイモンド作曲)という、恋人たちが喫茶店に入る姿を歌った歌がヒットする。〽お茶とお菓子を前にしてひとことも喋らぬ……とういういしい恋人たち。二人きりでしゃれた喫茶店に入るのは恋人たちにとって相当の勇気がいったようだ。
それでも昭和十一年に藤山一郎が歌ってヒットした「東京ラプソディー」(門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)の恋人たちになると、もう銀座の喫茶店を使いこなしている。
〽花咲き 花散る宵も 銀座の柳の下で 待つは君ひとり 君ひとり 逢えば行く喫茶店(ティールーム)……と恋人たちはいつも喫茶店を利用していることが分かる。