触れ太鼓よろしく、おじさんが打ち鳴らす拍子木を合図に子供たちが集まると、町角や空き地で紙芝居が始まる。子供たちは、こづかいで買った水飴や駄菓子を食べながら先週からの物語の続きを今か今かと待ちわびている。そう、紙芝居のおじさんはいつも話がこれからというときに「続きはまた来週」と、話を打ち切っていた。当然、子供たちの期待も高まる。冒険活劇から時代劇、継子いじめや、孝行物語、怪談など内容は多岐にわたる。一人の演じ手が複数の観客と向き合い、演じ手はメイン客である子供たちの反応をうかがいながら、絵の引き抜き方、声色、台詞回しなどに変化をつけて演じた。紙芝居は、昭和の初期に誕生し、そして、今は懐かしい、演じ手と客との一体感が魅力の、日本独自の文化だった。
紙芝居が町に来た
~昭和の子供の娯楽の時代~
文=川本三郎
昭和の風景 昭和の町 2017年1月1日号より
昭和を代表する写真家、木村伊兵衛に紙芝居を撮った懐かしい写真がある。
東京の下町、月島(中央区)の通りに自転車でやってきた紙芝居のおじさんが、これから店を開こうとしている。
子供たちが集まってきている。待ち切れずに紙芝居をめくっている子供もいる。男の子たちはたいてい坊主頭。女の子もいるし、赤ん坊を抱えた母親もいる。
昭和二十九年に撮影されている。前年の二十八年にはテレビ放送が始まっている。やがて紙芝居はすたれてゆくから、この写真は、消えゆく紙芝居の最後の頃をとらえているといえるだろう。
街頭紙芝居という子供相手の商売
戦後、娯楽の少なかった時代に、紙芝居は子供たちにとって数少ない楽しみだった。「町に紙芝居がやってくる」のを子供たちは待っていた。
昭和二十六年に公開された成瀬巳喜男監督の『銀座化粧』に紙芝居が出てくる。
田中絹代演じる主人公は、女手ひとつで子供を育てながら銀座のバーで働いている。銀座の東、新富町(中央区)あたりに住んでいる。まだ瓦屋根の木造家屋が並ぶ下町である。
町の横丁に紙芝居がやってくる。自転車の荷台に、木の箱を置き、それを舞台に見立て厚紙に描かれた絵を一枚一枚めくって見せてゆく。太鼓を鳴らしながら、無声映画の弁士のように物語を語ってゆく。
おじさんは水飴などの駄菓子を売る。これがいわば木戸銭、紙芝居代になる。飴を買わない(買えない)子供は、ただ見になるから遠慮して、遠くから見る。
『銀座化粧』には、もう一ヶ所、紙芝居のおじさんが店を開く前に、太鼓を叩きながら横丁を歩く姿がとらえられている。太鼓の音を聞いて、あちこちから子供が集まってくる。
この時代、いまに比べると、町には子供たちがたくさんいたことが分かる。だから街頭紙芝居という子供相手の商売が成り立った。
成瀬巳喜男は庶民の暮しを丁寧に描くのが好きだった。昭和二十七年の作品『おかあさん』は、田中絹代演じる母親が、夫を亡くしたあとクリーニング店を引継いで、子供たちを育ててゆく家庭劇。
舞台は大森あたり。この町にも紙芝居がやってくる。自転車の荷台の〝舞台〟で、集まってきた子供たちに絵物語を見せる。
紙芝居画家だった評論家、加太こうじの『紙芝居昭和史』(立風書房、一九七一年。のち岩波現代文庫)によると、戦後、紙芝居は一気に普及していったという。昭和二十五年には全国で五万人もの紙芝居屋がいた。
「百人ほどの画家によって描かれた肉筆の絵は東京から東海道をくだって絵のあるだけの説明者をふやして昭和二十五年へかけては九州にまで到達する」
紙芝居は肉筆で一組しか作られない。子供の遊びとはいえ、実は、手間がかかっている。手作業で作られる。一組を順番に回してゆく。のちに漫画家として有名になる水木しげるや白土三平は、無名時代に紙芝居を描いていた。