山本 聡
箱根甘酒茶屋 13代目 山本聡
守り続けた四百年の甘酒の味
午前3時40分に目覚まし時計を合わせて起床、小田原の家を出発するのが4時。4時30分、畑宿二子山の茶屋に着き、仕込みを始める。幟(のぼり)を掲げ、囲炉裏に薪をくべる。四百年続く代々の当主がそうしてきたように、これが年中無休の私の日常だ。
物心がついた頃、父が連れてきてくれたこの茶屋は、祖母が一人で細々と営んでいた。茶屋だけでは生計が成り立たず、祖父は芦之湯の旅館に働きに出て、昼間は祖母が甘酒茶屋を守っていた。一週間に一人、十日に一人しかお客さんが来なくても、祖母は決して茶屋を閉めなかった。
どうしてこんな不便な地で、茶屋を続けてきたのか。今でも逡巡すること度々だが、ここは、「天下の険」と言われる厳しい上りの山道が続く。箱根湯本からの道中には「女転ばし坂」「樫木坂」「猿滑坂」「追込坂」などの難所が続いて、やっとの思いで登ってくると、紺地に白抜きの「甘酒」の幟を見て、「助かった、やっと辿り着いた」と茶屋に入って来るお客さん。旅人たちの、「あー、開いていてよかった」「甘酒がほんとうに美味しかった」という一言に、私たちは救われる。きっと祖母も同じ気持ちだったにちがいない。自分の都合で茶屋を閉めたりやめたりすることができなかったのだろう。
江戸時代、この旧街道は人の通りが多かったそうで茶屋も数十軒あった。明治になって箱根の旦那衆が私財をなげうって国道一号線を通し、急速に人の行き交う影が減って茶屋もこの店だけになってしまった。
父は会社勤めをし、小田原に居を構え子供4人を育てた。高齢の祖父母に、「お店をやめて、小田原で暮そう」と話しても、祖母は頑なに拒んだそうだ。祖父が亡くなり、そんな父も迷うことなく会社勤めをやめて「箱根甘酒茶屋 十二代目」となった。
父や祖父母の後姿を見て来た私だが、18歳の時、懐石料理の「辻留」の門をたたき、皿洗いや掃除にはじまる修行をさせてもらった。東京で半年、京都の本店でも主人から直接指導を受け、日本料理の真髄に触れること6年間におよんだ。茶道のお家元に出入りを許された料理屋で究極の茶の世界に触れたこと、本物の日本のおもてなしの所作を含めたくさんのことを学んだ。後にこの茶屋で懐石料理を供することはしていないが、名料亭の修行は私の血となり肉になっている。
茶屋の魅力は往時のままの不便さ
高齢になる父を助けるため20年ほど前箱根に戻り、父と共に朽ち果てそうになっていた茅葺屋根の店を12年前に建て替えた。昔あった木はできるだけ生かし、足りないものは、古材を集めて建てた。古民家そのものの現在の茶屋のコンセプトは「不便」。往時のままの佇まいで、椅子は丸太を切ったもの、昔のままの間取り。米と米麹だけで作る創業以来の甘酒と、お餅を使った「いそべ」と「うぐいす」の力餅、みそおでん、ところてん、夏はかき氷のほかに冷たい甘酒が加わるが、メニューもほぼ守ってきた。
十三代目を継ぐとき、ここは年中無休、絶対に休まない、7時にはお店を開ける、という覚悟だったが、昨年4月の緊急事態宣言には、妻とも相談しやむなく1ケ月半の休業を余儀なくされた。それでも朝はいつものように店に来て、幟こそ掲げなかったが、出入口の引戸を半分開けた。「甘酒をください」というお客さまには事情を話してお断りせざるを得なかったが、携帯電話が通じなくて電話を貸して欲しいというお客さまがいた。ここが一軒だけ残っただけに、常夜灯の役目を果たしていることに改めて気づかされた。
よく百貨店に出店しませんかというお誘いを受けるが、気が進まない。うちの甘酒は、あの急な坂が味付けになっていて、やっと辿り着いて飲む味と、冷暖房の効いた部屋で飲む甘酒とは同じものであっても、全く違うと思うからだ。果たして昔のままの商売を続けていくことでいいのか、時に悩むこともあるが、四百年続いた「甘酒茶屋」は、いまや私の店であっても私の店ではない。箱根を訪れるみなさんのものになっている。この茶屋を訪れるみなさんにそれぞれの思い入れもあり、たまたま私はこの代を続けさせてもらい茶屋を守っているという思いがある。後世に続く甘酒茶屋が、その時代その時代のことを伝えてくれるようになれば、十三代目の役割を全うしたことになると思っている。
箱根甘酒茶屋
[住] 神奈川県足柄下郡箱根町畑宿二子山395-28
[問] ℡.0460-83-6418