私の生前整理 2020年1月1日号より
文=ひろ さちや
宗教評論家
©児玉成一
生死を境にした体験で思ったこと
昨年(二〇一九)の二月に、脳梗塞を患い、二カ月近い入院生活を余儀なくされました。現在もリハビリ生活を続けています。
朝方の四時半ごろ、家の中で転倒し、起き上がれなくなって、救急車で病院に運ばれ、そのままの入院生活でした。それで、
〈よかった!〉
と思っています。あれが、入院のための準備期間が必要であったなら、そのあいだじくじく思い悩まなければなりません。つらいですね。それよりは、「はい、入院です」となったほうが、どれだけ楽か分かりません。
そして、かりに救急車の中で「ばたんきゅう」と寿命が尽きても、それはそれでよかったと思います。だってわたしの死後の葬式やもろもろのことは、すべてあとに残った遺族の仕事です。遺族は面倒かもしれませんが、わたしとしては遺族にお願いするよりほかありません。わたし自身は、死の瞬間に阿弥陀仏(あみだぶつ)のお浄土に往けると信じています。だから遺族が、わたしの死体をいかに扱おうと、わたしには関係ありません。好きなようにしてください。わたしは常日頃からそう考え、言っています。楽なものです。
患って、道元禅師の主張に救いを求める
しかし、病気の予後は、それほど楽ではありません。正直に苦しいですね。泣きたい気持ちになります。
わたしは、仏教に救いを求めました。とくに曹洞宗の道元禅師の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』を読みました。『正法眼蔵』は難解とされていますが、自分の置かれた状況のせいか、道元禅師の主張がひしひしと胸に迫ってきました。
道元禅師はこのようなことを言っています。
───わたしたちは、いま、目の前にある現実をしっかりと生きねばならぬ───
こうまとめてしまえば、すごく簡単なように聞こえますが、彼はこのことをいろんな角度から論じているのです。
たとえば、あなたが貧乏だとします。それは貧乏という現実があなたの目の前に現れているのです。道元禅師はそれを「現成(げんじょう)」と呼んでいます。あなたはその現成した貧乏をしっかりと生きるべきです。
病気が現成すれば、その現成した病気をしっかりと生きるべきです。〈早く治ればいいなぁ〉と焦せらずに───焦ったところで、病気は治るまで治りません───病気とじっくり付き合って生きればよいのです。
そして、やがてわたしに「死」が現成します。そのときになって、わたしは死と付き合って生きればよい。いや死ねばよいのです。かねがねわたしは、死がやって来たときに死ねばよい。何の「準備」もいらないと言ってきました。脳梗塞を患い、道元禅師を読んで、わたしの考え方でいいことを再確認できました。
これからのちも、わたしは現成したものをしっかりと生きるつもりでいます。
ひろ さちや
宗教評論家。1936 年大阪府生まれ。東京大学文学部印度哲学科卒業。同大学院修了、気象大学校教授を経て、仏教・インド思想など、宗教について幅広く執筆、講演活動を行う。著書に『親鸞』『法然』『道元』(春秋社)、『のんびり生きて気楽に死のう』(PHP研究所)、『世捨て人のすすめ』(有楽出版社)、『お墓、葬式、戒名は本当に必要か 伝統と新しい形を考える』(青春出版社)他多数。