文=萩原朔美
2010年6月1日号 PERSON IN STYLE《美しいとき》より
ゴージャス。草笛光子さんは、日本の女優でこの言葉が似合う数少ないお一人。
翻訳劇の舞台でも草笛さんのセリフは何の違和感もなく耳に飛び込んでくる。
さらに、草笛さんには、きっぱりとしたさわやかさがある。
好き・嫌い、自分の求めたいものが明瞭なのだ。
これは港町・横浜の出身だということと無関係ではないだろう。
そして、極めんとする女優の芝居を見せるとき、
その空間は、品性という草笛さんの芸の質で満たされるのである。
撮影=渞 忠之
ヘア&メイク=尚司芳和〈HAIR DIMENSION〉(草笛光子)
演技に対する真摯な熱情が品性を生成し醸造する
「品行は直せても、品性は直せない」 草笛光子さんをイメージした時、すぐ浮かんでくるのがこの言葉だ。原節子のセリフである。タイトルは忘れてしまった。たしか小津安二郎監督の映画だったと思う。
たしかに品行は隠せる。矯正は可能だ。しかし、品性は躾や学習などではどうにもならない。
草笛光子さんが醸し出す雰囲気は、常に品性というドレスを纏っている。どんなによごれた役でも、どんなに下劣な振る舞いの役を演じていても、根底に深沈と流れている品性は揺るがない。そう思えるのだ。
たぶん、演技に対する真摯な熱情が品性を生成し醸造しているからではないだろうか。そうとしか考えられない。
品性は、容姿や振る舞いや出自が生み出すものではない。そのことを草笛さんはみごとに証明しているのである。
映画、テレビ、舞台。この中でひとつ選ぶとしたら、どれを選択しますか。私はがそんな質問をしたら、
「芝居ですね」
瞬時に答えが投げ返された。逡巡のない明快さがあった。芝居は稽古が辛い。長く続く本番が辛い。だからこそ舞台の表現に賭けたい。克己は品性の芸名なのだ。
昨年の舞台『グレイ・ガーデンズ』のパンフレットで草笛光子さんが書いている。
「 ─── 役者はその人物になりきるために、どうしても、その役を自分の体にいったん通さなくてはいけない。自分の血となり肉となるまで稽古で噛み砕いていかねばならない。これがとても辛いんです。 ─── 」
自分とはまったく別の人間を自分のなかに取り込む作業。考えただけでも大変そうだ。自分にはない癖、感性、イントネーションなどを我が事にする。翻訳劇だと文化や習慣の違いが加わるから辛さは倍増するだろう。
「 ─── 体でわかるまで繰り返し取り組むようにしています。やりなれないことを体に強いているので、お稽古はしんどいですけど……。でもこれは私が翻訳劇に挑む場合に、どうしても通らなくてはならない道なんです」
大変さは、辛い稽古の後さらに倍増して役者を襲う。演劇は、一回性のやり直しのきかないライブパフォーマンスである。間違えはあり得ない。病気で休むことは許されない。そんな毎日は想像しただけでぞっとする。観客にこの大変さを理解して貰うには、結婚式の挨拶を思い浮かべてもらえば分かりやすい。わずか数分のセリフなのに本番は上がってしまって上手くいかない。その緊張が二時間三時間と続き、一週間、一か月と休みなく襲ってくる。私ならストレスでだらだらと呑んでしまうだろう。草笛さんは公演に入ると、早くベッドに入りアルコールは口にせず、体を保つため摂生に努めるのだそうだ。