2013年10月1日号「街へ出よう」より
裏道であり、抜け道であり、隠れ道であり、
夕涼みの道であり、立ち話の道であり、
子供の遊び場である東京の路地。
一歩路地に入ると、軒先には緑の鉢植えが並び、
家には煙突があり、二階には物干し、風鈴がゆらゆらと風になびく。
ゆったりと時が流れていく路地の家々はのどかだ。
昭和情緒を訪ねて路地を歩いてみませんか。
東京の路地を歩く
~昭和の風景が残る場所~
文・太田和彦
都会の路地は一種のけもの道
大学で上京してから都内の引っ越しを繰り返し、そのたびに近所をじっくり歩いた。
最初に住んだ下北沢南口は、その先は高級住宅地で当時首相の佐藤栄作邸や女優・久我美子邸があった。下北沢一帯の道はどこも狭く複雑なためバス、タクシーは入れず、駅前は駐車場がなく改札を出るといきなり商店街。道はつねに歩行者天国で三差路、五差路は当たりまえの迷路はぽつんと一軒家の喫茶店(ジャズ喫茶「マサコ」、なくなった)だったり、教会がひっそり建っていたり、長屋住宅があったりした。
この春に地下化した下北沢駅は、リニューアルされる計画と聞くが、ちょっと待て。ここはやはり自動車乗り入れ禁止は守りたい。歩いてこそ街が自分の街になり、しかも交通事故は絶対にない。人が歩くことでストリート文化が発生し、それが街の豊かさになり、さらに人を集めた賑わいになる。下北沢はそうして演劇や音楽などサブカルチャーの街になり、若者と若い心を持つ大人の街になった。東京でこういう文化のある最後の街が下北沢だ。ここに遊びに来る欧米の若者が増えているのは、肌やセンスに感じるものがあるからだろう。再開発キャッチフレーズをこうしよう。「歩く街・下北沢」。
これは「路地の文化」だ。私は東京で初めて住んだ街で路地の文化を知った。それまで住んでいた信州の山奥は路地というものはなく、もしあれば「けもの道」だった(笑)。
(笑) にしたが、都会の路地は一種のけもの道ではないか。官が筋を引いた表道に対して自然発生した裏道。近道であり、抜け道であり、隠れ道であり、すれ違いを譲り合う道であり、立ち話の道であり、夕涼みの道であり、子供の遊び場だ。
十億ションが立ち並ぶ間に小さな木造二階長屋群
30歳を過ぎ六本木烏居坂のマンションに越すと、日曜の朝はいつも近辺の散歩に出た。麻布十番から暗闇坂を上がった元麻布は東京一の古い高級住宅地だ。信州の田舎で読んだ本であこがれた戦前東京の落ち着いた上流お屋敷は、きちんとした挨拶をかわす父母がいて、名門女学校に通う女学生の弾くピアノが聞こえるはずだ。
そういう家はいくつもあった。田舎の屋敷とはちがい殆どはひっそりした洋館で、人の気配はうかがえなく、ヒマラヤ杉の梢の間に見える二階の窓はカーテンが引かれていた。長々と続く塀で囲まれた車寄せのある玄関の古い洋館の多くは大使館、或いは戦前からの財閥の会員制クラブ。外国人子女の「西町インターナショナルスクール」は日本の学校と雰囲気がちがい、小さな外人向けマンションはマンションブームで売り出し中の派手な外装とちがい、隠れるようにに瀟洒に建っていた。
一方、仙台坂上には古い豆腐屋も旧・宮村町内会掲示版もある。三田には木造二階長屋が幾棟も並び、銭湯「日の出湯」にはよく通った。最も驚いたのは元麻布二丁目の、今や億ションならぬ十億ションが立ち並ぶ間にある小さな「宮村児童公園」脇の木造二階長屋群だ。その風景は月島や佃と変わらなかった。