1932年、東宝の前身である P.C.L.(写真化学研究所)が
成城に撮影用の大ステージを建設し、東宝撮影所、砧撮影所などと呼ばれた。
以来、成城の地には映画監督や、スター俳優たちが居を構えるようになり、
昭和の成城の街はさしずめ日本のビバリーヒルズといった様相を呈していた。
街を歩けば、三船敏郎がゴムぞうりで散歩していたり、
自転車に乗った司葉子に遭遇するのも日常のスケッチだった。
成城に住んだキラ星のごとき映画人たちのとっておきのエピソード、
成城のあの場所、この場所で撮影された映画の数々をご紹介しながら
あの輝きにあふれた昭和の銀幕散歩へと出かけるとしましょう。
お馴染み探偵小説の大家・横溝正史。生年は1902年(明治35年)。戦前から作家活動を始めた作家であるが、70年代中期に出版された角川文庫版での大ブレイクで、その存在(と魅力)を初めて知った方も多かろう。その後、『犬神家の一族』をはじめ多くの作品が市川崑監督によって映画化。角川春樹の仕掛け「読んでから見るか、見てから読むか」のキャッチフレーズや、その大量宣伝=メディアミックスの効果も相まって、横溝の名はさらに全国に広まっていった。
そんな横溝に筆者が初めて注目したのは、週刊「少年マガジン」(講談社)に連載された影丸穣也作の劇画『八つ墓村』(68年)を読んだ中学2年生のとき。早速、我が家の本棚にあった原作小説に目を通すや、おどろおどろしいながらも新鮮さを感じさせる作風に魅入られ、家にあった横溝(ついでに江戸川乱歩)の長編小説はすべて読破。高校生になると角川が次々と文庫化したことで、さらに多くの横溝作品に接することとなった。
成城大学に入学すると、正門前を横溝がフラフラと歩いている姿をしばしば目撃。てっきり岡山辺りに住んでいると思っていた横溝が、高級住宅地の成城に住んでいることに、少なからぬ違和感を覚えたものだった。
その横溝が成城に住み始めたのは、戦後、1948年(昭和23年)8月のこと。疎開先の岡山から東京に戻った横溝は、某書店の仲介で、この地に居を構える。地理的には成城台地を少し南に下った、東宝撮影所北側の傾斜地にあたり、その敷地は600坪。成城学園前駅から歩いて10分ほどの場所である。「当初は、地主が建てた物置小屋に手を入れて住み始めた」と証言するのは、隣家の植村(中江)泰子さん(元P.C.L.=東宝映画社長・植村泰二の長女)。当初はそれほど質素な家構えだったのだろう。
戦前から肺結核を病み、喀血を繰り返していた横溝は、長野県に転地し、療養を余儀なくされたという苦い経験をもつ。したがって、この成城の家は、東南側に東宝の大ステージ、西側に鬱蒼とした御料林はあるものの、庭の前には見晴らしの良い開放的な空間が拡がり、新鮮な空気はもちろん水の良い土地柄でもあったため、横溝の健康面を考えれば、実に適切な転居先であった。加えて、作家活動を送る上で編集者とのやり取りは不可欠。郊外とは言え、私鉄の最寄り駅から程近いこの家は、非常に実用的な側面も併せ持っていたことになる。