2013年1月1日号「街へ出よう」
神社が一番にぎわいを見せるのは新年の初詣だろう。
ところが最近、京都や鎌倉の名刹に限らず町中の小さな神社や寺を日常的に訪れる人が増えているようだ。
女性たちの間で神社や寺巡りがちょっとしたブームになっていると聞く。
町中の神社や寺は人々の生活と寄り添い、親しみを感じる。
年の瀬のあわただしい時間からちょっとはなれて静かな時が流れる神社で、一年の心の締めくくりをするのはどうだろう。
そして、年が明けたら気持ちも新たに初詣。
新しい年の幸を析念して。
東京町中、神社・寺巡り
~古来の時の流れに身を委ねて~
文・太田和彦
心の拠り所となる神社やお寺詣り
神社を訪れるのが好きだ。特に初冬がいい。冬の澄んだ光に神社の清浄なたたずまいは似合い、そろそろ一年の締めくくりを意識するころに、今一度自分の心を清らかにする効果がある。
また場所が変わることがない神社のたたずまいは、変化激しい時代に不動であることの価値を思わせ、心の拠り所になる。震災以降、雑誌に神社特集が多いのもこんな心情を反映しているのだろう。道すがら立ち止まって一社する人を見る。秘めた願いや家族の加護を析って手を合わす場所がつねにあることが、どれだけ人の世を落ち着かせていることか。これは宗教信仰とはちがう、心を支える方法であり知恵と思う。
旅でも神社があると参拝する。鳥居をくぐり、砂利の参道を歩き、その地の地霊に「しばらくこの町にお邪魔いたします」と挨拶する。終えると境内を歩く。興味は狛犬で、大ぶり、小ぶり、雄壮、愛らしい、と個性がある。おおむね古いものは威儀を正して前肢を揃え胸を張り、新しいものはくだけたポーズで彫刻的なおもしろ味がある。
境内には古い記念碑がよくあり、難解な漢文をウンウンと読み、建立年や篆額(題字を書いた人)、撰文(文を書いた人) を知る。日本中で見るのは大山巖篆額だ。郷土の偉人や殉難者の顕彰碑には土地の歴史がある。句碑も多く、へ夕な句をひねる私には楽しみだ。手書きの祈願絵馬を読み、人々の願いはみな同じとしみじみした気持ちになる。最後はおみくじ。当るも八卦当らぬも……それが自分への戒め、心がけになるのならこんなに良いことはない。
神社趣味が高じ、今年三月に伊勢神宮の内宮・外宮をじっくりまわった。伊勢神宮は歴代天皇も参拝するところだ。結果はまことに意義深く、神話に始まる古代日本の成り立ち、日本という国の生業、文化、精神などの根本がよくわかった。
私の家は神道だが、自分では宗教を持っている自覚はない。本義は知らないが、釈迦やキリストのように具体的な一身ではなく、やおよろずに神が宿るという考えは、農を元にする田舎で育った身には命あるものは皆尊いと素直になじむ。家の神棚には先祖の霊璽(れいじ)がある。先祖を祀ることは誠に自然で、自分の死後もこうして誰かが思い出してくれる安心感につながる。祭事に奏上される祝詞は古代神話にもとづくそうだが、自分にも必ず先祖があると思うと感謝の心が生まれる。
そこまで考えなくても、人生の節目節目の儀式を行う具体的な場所が定まってあり、その作法通りにすすめて心を納得させる安心感が最もありがたい。昨年、父母兄の年忌を型通り行い、役目を果たした。