1932年、東宝の前身である P.C.L.(写真化学研究所)が
成城に撮影用の大ステージを建設し、東宝撮影所、砧撮影所などと呼ばれた。
以来、成城の地には映画監督や、スター俳優たちが居を構えるようになり、
昭和の成城の街はさしずめ日本のビバリーヒルズといった様相を呈していた。
街を歩けば、三船敏郎がゴムぞうりで散歩していたり、
自転車に乗った司葉子に遭遇するのも日常のスケッチだった。
成城に住んだキラ星のごとき映画人たちのとっておきのエピソード、
成城のあの場所、この場所で撮影された映画の数々をご紹介しながら
あの輝きにあふれた昭和の銀幕散歩へと出かけるとしましょう。
もともとクレージーキャッツの弟分的存在だったザ・ドリフターズ。加藤茶をはじめ、高木ブー、荒井注、仲本工事などが、事務所(渡辺プロダクション)の先輩・ハナ肇から芸名を付けられたことからも、その関係性が良く分かる。クレージー主演の『クレージー黄金作戦』(67年4月)に揃ってゲスト出演したのち、まず松竹で『なにはなくとも全員集合!!』(同年8月:渡辺祐介監督)という彼らが中心となった喜劇(実質的な主役は三木のり平)に出演したドリフ。続いて、東宝で『ドリフターズですよ! 前進前進また前進』(同年10月)なるタイトルを持つ、立派な主演作が公開されるに至る。
松竹作品の『全員集合!!』なるタイトルは、もともとハナ肇がクレージーのメンバーを自分のもとに召集する際の号令で、これが翌1969年10月からTBSで始まる公開ヴァラエティ番組「8時だョ!全員集合」に繋がっていく。かくして、1年半の放送ののち、ドリフの人気は急上昇。71年4月からは他局に出演が決まったドリフの代わりに、クレージーがその後釜を引き継ぐが、これが見るも無残な結果を呼び、クレージーの衰え(そしてドリフの勢い)をいやでも実感させられることとなる(註1)。熱狂的なクレージー・ファンだった筆者も、さすがにこの番組「8時だヨ! 出発進行」だけはついていけず、途中で見るのを止めてしまったほどだ。
そして、68年頃からお茶の間で大人気を博していたのがコント55号のお二人。言うまでもないことだが、欽ちゃんこと萩本欽一と二郎さん・坂上二郎によるスピード感あふれるコントや野球拳(「コント55号!裏番組をブッ飛ばせ!!」。こんなブッ飛んだ番組は二度と作られないだろう)などでその存在は全国に浸透。これを映画界が放っておくはずもなく、まずは東宝で『コント55号 世紀の大弱点』なるタイトルの主演作が企画される。
同時に松竹で主演作を持てたのはドリフと同様で、当然ながらドライな喜劇を得意とする東宝(キャラが合わなかったか、四作のみに終わる)と、下町喜劇の要素が濃い松竹作品(水前寺清子との共演=野村芳太郎監督作多数)との間には、かなりの差異を感じたものである。