飯山 雅樹
強羅花扇 専務取締役
飛騨高山の名旅館を箱根に
私どものルーツは、飛騨高山です。代々旅館業を営んでいたというわけではないのですが、1971年10月、訪日外国人旅行客(インバウンド)を獲得しようという観光立国の国策に沿って、祖父と父が「いいやま荘(現 花扇別邸いいやま)」を創業したのが始まりです。世界遺産白川郷に近い高山が、観光立国の一翼を担うことになって、その後「飛騨亭花扇」を開業。2008年から箱根の地に花扇グループの温泉旅館3軒を順に開業いたしました。その一つの「強羅花扇早雲閣」は、大正14年創業の「頓狂楼早雲閣」という老舗旅館を引き継いで営業しておりましたが、2019年の台風で被災し現在は閉館しました。
強羅花扇早雲閣を引き継いだ同じ頃、「強羅花扇」を箱根で新規オープンいたしました。
強羅花扇は、小田急電鉄グループの箱根登山鉄道さんの所有で、当時は新宿区の保養施設でしたが、縁あって花扇グループが引き継ぎました。改装は建物の躯体だけ残しほぼスケルトン状態にして、入り口の格子やロビーの設えも神代欅や飛騨産の杉などをふんだんに使って「木造り」の館の飛騨高山のような雰囲気の落ち着いた趣にいたしました。少し後れてもう一軒、強羅に「円かの杜」をオープンいたしましたが、同じように飛騨高山をイメージしております。
私は3人兄姉の末っ子でしたので家業の旅館を継ぐつもりはなく、大学は理数系で建築工学を専攻、都内のゼネコン会社に就職し、マンション建設の仕事を5年ほど経験いたしました。箱根で強羅花扇や早雲閣を開業することになり、父の要望もあって一転、今の仕事に就いております。現在は、姉夫婦に旅館の経営を教えてもらいながら、励んでおります。晴天の霹靂とまでは言いませんが、住まいも小田原に構え、思わぬ方向に進んで12年程です。
箱根一帯のコロナ対策は万全
現在は小田原から車で国道一号線を走って、7時半頃ホテルに入ります。毎日小田原から車で通勤すると、四季の移ろいを肌で感じます。その中でも春の新緑の箱根が私は一番好きです。特に雨の降った後の新緑は、鮮やかで匂い立つような感じがします。そして美術館などの文化施設が数多くあり、一日では回り切れないほど充実しています。自身の子供たちも箱根に連れて来ますが、箱根ユネッサンや、彫刻の森のアスレチックもあって、子供たちが遊べる施設があることも箱根の魅力です。
「強羅花扇」は、箱根登山ケーブルカーの早雲山駅にほど近く、全室源泉かけ流し露天風呂付きの客室で、自家源泉から湧き出る湯は、箱根では珍しい美肌泉質の重曹泉です。大浴場もありますが、今のような時期は、各室に露天風呂が付いていることで、お客様にも安心してご利用していただけます。そして当旅館の特徴の一つ、雑誌「¿Como le va?」で連載執筆されていた、また、義兄と親睦の深い音楽プロデューサーの立川直樹さんが総合プロデュースする「ONGAKU RYOKAN」として、飛騨高山の天然木の香りに包まれるラウンジの空間で寛ぎながら、音楽コンサートで豊かな時間を過ごしていただくようプランされております。今年の8月、箱根アフロディーテ50周年記念のイベントで、「追憶のピンク・フロイド」のオーディオライブがあった前夜祭を当強羅花扇で開催いたしました。時期が来たら定期的に年4回、ロビーコンサートを行えたらと思っています。
箱根でも強羅の地区は、会社や学校の保養施設が多く、特にリーマンショックの後は、経営母体の入れ替えがありました。新規参入についてアレルギーのない地区ですが、花扇は私共がオーナーとして箱根に常駐し、常に顔が見える状況でしたので、周りの同業の方たちに受け入れていただけて、大変有難かったです。箱根登山鉄道さんから引き継ぐ前、当時の深谷研二社長が、高山の旅館を見て気に入ってくれたことも、箱根で営業するにあたり円滑に進められた大きな要因です。2015年の大涌谷の噴火から、箱根の旅館、ホテルも一致団結しようという気配になったのではないでしょうか。箱根の旅館やホテル、お土産屋さんの感染対策はしっかりしていて、クラスター等は現在出ていません。箱根はこれまで長きにわたり宿泊サービスを営んできた地域だからこそ、公衆衛生面の対策は万全なのだと思います。
当館の屋号の「花扇」は、扇のように末広がりで花が開くことをイメージして、来ていただくお客様も発展しますようにという思いで命名しております。まだ、コロナ禍の苦しい時期ではございますが、従業員や箱根の皆さんと手を携え、箱根を盛り上げていきたいと思っております。
いいやま まさき
1980年、岐阜県高山市出身。日本大学生産工学部建築工学科卒業後、建設会社入社。2009年より強羅花扇専務取締役。