人間の礎になる幼少年期に接した文化
愛宕山の「NHK放送博物館」に初めて行った。ラジオ、テレビ放送の歴史をたどるここに一度行きたいと思っていた。目当てはラジオだ。
大正14年に本放送の始まった最初の電波はこの愛宕山から発信された。東京放送局のコールサインはJOAK。ラジオという未知のものを紹介するポスターの、稲穂が広がる木陰で野良着の男女が耳にレシーバーを当て、鉱石ラジオのチューナーを回す絵がいい。その後、JOBK大阪、JOCK名古屋と全国に拡大する各局のポスターが続く。JOHK仙台は〈學都大仙臺に恵まれたるJOHKは、信用の放送と徳義の聴取に依って大發展を期す〉と硬く、JOJK金沢は〈北陸新文化の黎明 備へませうラヂオ〉と呼びかける。
放送風景の写真も面白い。大正14年、ラジオドラマ「勇敢なる逓送夫(郵便配達人)」は〈火事場の臨場感を出すため局舎前で火を燃やして放送〉と解説され、本当に大きな火を前にマイクが立つ。昭和4年元旦の「鶏の声中継」はマイクを前に本物のニワトリが構えるのがおかしい。「啼け、啼け」とけしかけたのだろうか。まだ録音機のない時代だ。
戦時下の統制放送、終戦の玉音放送をへて戦後に至り、〈欠乏の時代のラジオ/ラジオは苦しい生活の助けになることを目的にした番組が目立った〉として「配給だより」「明日の食糧」「主婦日記」「尋ね人」「引揚者の時間」などがある。わが家も引揚者、両親はこれを聞いていただろうか。いや「復員だより」の〈旧支那から明日の午後、リバティ船で長崎入港予定の……〉という放送を、両親の両親は望みをかけて聞いていたのではないか。わが一家を乗せた引揚船は長崎・南風崎に入港したのだった。
連続放送劇「鐘の鳴る丘」のボタンを押すと、鐘の音に続いて主題歌が始まった。
緑の丘の赤い屋根
とんがり帽子の時計台
鐘が鳴ります キンコンカン
メーメー子山羊も啼いてます
風がそよそよ丘の家
黄色いお窓は俺らの家よ
みるみる目から涙があふれた。昭和22~25年に放送された当時私は2~5歳。舞台が信州なのもうれしく、何よりも、弾みながらぐんぐん上昇する主題歌は、自分が歌ってふさわしい初めての「わが歌」になった。三番の一節「父さん母さんいないけど」は、父母ともにある自分は幸せなのだと思わされた。
昭和25年に始まった歌番組「今週の明星」の紹介もある。
輝きよ輝きよ
今宵またうるわしく
若き夢と憧れの光のみほしよ
(日曜の夜のひととき、流れくる歌の調べは想い出の歌、新しい歌、皆様の希望を乗せて輝く今週の明星、第○○夜であります)
夜空高く愛の星は
若き胸にささやき
思い込めて忍びよるは
楽しい歌のみほしよ
輝かしくも軽快なルンバに乗せたはつらつたる男女合唱に、颯爽とナレーションが入り、再び合唱が曲調をせり上げる。華やかなオープニングは隅々まで憶えており、胸が一杯になる。
「二十の扉」「とんち教室」「話の泉」「日曜娯楽版」「のど自慢」「日曜名作座」「私の本棚」「お父さんはお人よし」「一丁目一番地」。さらに子供向け連続放送劇「さくらんぼ大将」「おらあ三太」。幼き日が次々によみがえる。母は女湯が空になると言われた「君の名は」、私は「笛吹童子」、父は「話の泉」。それぞれが好きな番組を持っていた。父と聞く「話の泉」は子供心に雑学の面白
さを知った。学校教師の父は朝の登校前、第二放送の「中国語講座」を熱心に聴き、学ぶことは大切と思った。
幼少年期に接した文化はその人の基礎の基礎を作ると言う。私がラジオから受けたものはこれほどまでに豊かなものだったか。一生の宝物を作ってくれたNHK放送ありがとう。素直にその気持ちになり。館を出た。