2011年10月1日号「街へ出よう」より
町を歩いていると、その町ゆかりの作家の記念館に出会う。根津・千駄木界隈だと森鴎外、池袋には江戸川乱歩、三鷹の山本有三に太宰治、調布には武者小路実篤、足を延ばして青梅には吉川英治などなど、都内には意外なほど、作家の記念館が多い。作家が愛した町の風景、作家が愛したその町の味を訪ねながら今年の秋は、「読書の秋・散歩篇」というのはいかがだろう。
時は流れ、町の佇まいも変わってはいるが、その町には確かに、作家たちの面影が残っているに違いない。
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作家の人生を旅する記念館めぐり
文・太田和彦
パソコン時代、現代作家の記念館は創られるのだろうか
美術家や音楽家などに比べて文学者の記念館が多いのは、それだけ作品に作者が現われているからなのかもしれない。展示は初版本や作品資料に加え、作家直筆の生原稿が楽しみだ。毛筆、鉛筆、万年筆。端正な字、癖のある字、きれいな清書、修正生々しい原稿などから作家の仕事ぶりが伝わってくる。また幼少期、作家デビュー期、全盛期などの写真の風貌は一人の人間の成長をあらわし、遺愛の品々からは日常の姿が見える。
私が何度か入って印象に残っているのは金沢の泉鏡花文学館だ。大きな展示館ではないが時々で特別企画がある。鏡花の文学作品は袖珍本(袖に入る小型の美麗愛蔵本)が多く作られ、その小村雪岱(こむらせったい)の装丁が見ものだった。また鏡花作は新派の舞台になり映画化も多く、名優とおさまる写真や映画ポスターは華やかだ。舞台や映画に広がりのあった文学者は目で見て楽しめるものが多い。
現代の作家の執筆はほとんどがパソコンと聞く。そうなれば文学館の花形である直筆生原稿は存在しなく、またパソコン原稿の修正はもとの文を消してしまうので、初めはどう書いてあったかは残らない。これはつまらないような気がする。現代作家に往年の文士のような個性は少なくなったと言われるが、人それぞれの歴史や趣味はもちろんある。新しい作家の、例えば村上春樹や椎名誠、美貌の女流作家などの文学館はどういうものになるか楽しみだが、創られるだろうか。