22.09.28 update

読書の秋。作家が愛した町の風景、町の味を訪ねてみよう

著作、趣味から人生まで池波正太郎の世界


 池波正太郎の没後十一年、生地浅草に創られた池波正太郎記念文庫は、台東区中央図書館の施設の一部で入場無料というのがいい。すべての著作本だけでも膨大だ。池波は新国劇の劇作家でデビューした。その作・演出台本が目を引く。『鈍牛画伯』『黒雲峠』『雨の首ふり坂』『賊将・桐野利秋』『牛越の平八・あばれ狼』『秋風三國峠』『江戸女草紙・出刃打お玉』『同・市松小僧の女』『同・あいびきの女』『名寄岩』『牧野富太郎』などのいかにも往年の大衆演劇の題名がいい。生身の観客を飽きさせない題材や物語展開はこうして鍛えられたのだろう。

 生原稿は、専用原稿用紙に万年筆で力強く書かれたのち、推敲は青鉛筆で消し、赤鉛筆で加筆が流儀のようだ。
『鬼平犯科帳 伊三次の女』の「伊三次」は消されて「猫じゃらしの女」になり、「盗法傳授」は「盗法秘伝」、『剣客商売 辻斬り旗本』は「旗本」が消されている。
 著作のほか、旅、スケッチ、映画、食べ歩きなど多彩な趣味を持った人らしく、風景「ノルマンディの野」「月夜の船入り(佃島)」、静物「甘鯛」「鱸(すずき)」「蕪(かぶら)」など、達者な絵に使った水彩パレットや絵具は本格だ。
 ガラス戸棚の「遺愛の品」は、万年筆、パイプ、煙管と煙草盆、黒のソフト帽。「正太郎」名入りの湯呑みは箱書きに「御礼 六十老 山口瞳」とある。籐編み巻きに漆仕上げの愛用のステッキは握り心地がよさそうだ。東京市西町尋常小学校通信簿・池波正太郎は「甲」ばかりに、操行に少し「乙」もあるのがほほえましい。正太郎少年は小学校を出るとすぐ茅場町、兜町の株式仲買で働き始め、はやくから社会に出て自分一本で働いたことの有意義を、後年なんどもエッセイに書いている。

 その後、役所に勤めながら劇作や長谷川伸に奨められて小説を書き、三十二歳で退職して筆一本を決意。昭和三十五年、第四十三回直木賞受賞の祝電〈ゴジュショウノオヨロコビヲトモニ サラニゴジアイ一バイ(御自愛一倍)ヲイノツテオリマス ヨシカワエイジ〉は大切に残しておいたようだ。ときに正太郎三十七歳。これで自分はやっていけると自信を得たのだろう。没後葬儀に際した中一弥、山口瞳、中村又五郎の弔辞原稿もあった。


 いちばん奥のガラスに囲まれた書斎再現が興味深い。広げた原稿用紙の上には万年筆、赤青半分の色鉛筆が乗る。羽ほうきやペーパーナイフ、灰皿などは位置が定まり、背を囲む資料棚にはピース缶が六個並ぶ。ここで精力的にあれだけの仕事をぐいぐいこなしていたのだ。
 人生後半の楽しみは池波正太郎の読破だ。そんな気持ちで浅草をあとにした。正太郎にならって神田「まつや」で蕎麦でもたぐろう。


おおた かずひこ
エッセイスト。著書に『ニッポン居酒屋放浪記』『居酒屋道楽』『居酒屋百名山』『ひとり飲む、京都』など。

1 2 3

映画は死なず

新着記事

  • 2024.09.05
    引きこもりの愉しみ─萩原 朔美の日々   

    第22回 キジュからの現場報告

  • 2024.09.05
    尾上松也、瀧内公美、段田安則らが織田作之助の『夫婦...

    東京、愛知、大阪公演

  • 2024.09.05
    今年4月、84歳で逝ったいぶし銀のような名バイプレ...

    佐川満男「今は幸せかい」

  • 2024.09.04
    上村松園の渾身の名作《雪月花》三幅対も公開!皇居三...

    9月10日(火)~10月20日(日)

  • 2024.09.04
    『テルマエ・ロマエ』の原作者・ヤマザキ マリさんが...

    大切な入浴と睡眠

  • 2024.09.03
    十代の宮﨑あおいが三億円強奪事件実行犯を演じた『初...

    文=河井真也

  • 2024.09.03
    世界的人気ピアニスト フジコ・ヘミングの2020年...

    応募〆切:10月10日(木)

  • 2024.09.02
    <特集>今、時代劇が熱い! 第2弾、藤沢周平時代...

    時代劇は日本文化の財産である

  • 2024.08.30
    東京国立近代美術館「ハニワと土偶の近代」観賞券

    応募〆切:9月29日(日)

  • 2024.08.30
    第2回 高峰秀子☆ デコちゃんのP.C.L.=東宝...

    文=高田雅彦

特集 special feature 

わだばゴッホになる ! 板画家・棟方志功の  「芸業」

特集 わだばゴッホになる ! 板画家・棟方志功の 「芸業...

棟方志功の誤解 文=榎本了壱

VIVA! CINEMA 愛すべき映画人たちの大いなる遺産

特集 VIVA! CINEMA 愛すべき映画人たちの大いな...

「逝ける映画人を偲んで2021-2022」文=米谷紳之介

放浪の画家「山下 清の世界」を今。

特集 放浪の画家「山下 清の世界」を今。

「放浪の虫」の因って来たるところ 文=大竹昭子

「名匠・小津安二郎」の生誕120年、没後60年に想う

特集 「名匠・小津安二郎」の生誕120年、没後60年に想う

「いい顔」と「いい顔」が醸す小津映画の後味 文=米谷紳之介

人はなぜ「佐伯祐三」に惹かれるのか

特集 人はなぜ「佐伯祐三」に惹かれるのか

わが母とともに、祐三のパリへ  文=太田治子

ユーミン、半世紀の音楽旅

特集 ユーミン、半世紀の音楽旅

いつもユーミンが流れていた 文=有吉玉青

没後80年、「詩人・萩原朔太郎」を吟遊す 全国縦断、展覧会「萩原朔太郎大全」の旅 

特集 没後80年、「詩人・萩原朔太郎」を吟遊す 全国縦断、...

言葉の素顔とは?「萩原朔太郎大全」の試み。文=萩原朔美

「芸術座」という血統

特集 「芸術座」という血統

シアタークリエへ

喜劇の人 森繁久彌

特集 喜劇の人 森繁久彌

戦後昭和を元気にした<社長シリーズ>と<駅前シリーズ>

映画俳優 三船敏郎

特集 映画俳優 三船敏郎

戦後映画最大のスター〝世界のミフネ〟

「昭和歌謡アルバム」~プロマイドから流れくる思い出の流行歌 

昭和歌謡 「昭和歌謡アルバム」~プロマイドから流れくる思い出の...

第一弾 天地真理、安達明、久保浩、美樹克彦、あべ静江

故・大林宣彦が書き遺した、『二十四の瞳』の映画監督・木下惠介のこと

特集 故・大林宣彦が書き遺した、『二十四の瞳』の映画監督・...

「つつましく生きる庶民の情感」を映像にした49作品

仲代達矢を映画俳優として確立させた、名匠・小林正樹監督の信念

特集 仲代達矢を映画俳優として確立させた、名匠・小林正樹監...

「人間の條件」「怪談」「切腹」等全22作の根幹とは

挑戦し続ける劇団四季

特集 挑戦し続ける劇団四季

時代を先取りする日本エンタテインメント界のトップランナー

御存知! 東映時代劇

特集 御存知! 東映時代劇

みんなが拍手を送った勧善懲悪劇 

寅さんがいる風景

特集 寅さんがいる風景

やっぱり庶民のヒーローが懐かしい

アート界のレジェンド 横尾忠則の仕事

特集 アート界のレジェンド 横尾忠則の仕事

60年以上にわたる創造の全貌

東京日本橋浜町 明治座

特集 東京日本橋浜町 明治座

江戸薫る 芝居小屋の風情を今に

「花椿」の贈り物

特集 「花椿」の贈り物

リッチにスマートに、そしてモダンに

俳優たちの聖地「帝国劇場」

特集 俳優たちの聖地「帝国劇場」

演劇史に残る数々の名作生んだ百年のロマン 文=山川静夫

秋山庄太郎 魅せられし「役者」の貌

特集 秋山庄太郎 魅せられし「役者」の貌

役柄と素顔のはざまで

秋山庄太郎ポートレートの美学

特集 秋山庄太郎ポートレートの美学

美しきをより美しく

久世光彦のテレビ

特集 久世光彦のテレビ

昭和の匂いを愛し、 テレビと遊んだ男

加山雄三80歳、未だ青春

特集 加山雄三80歳、未だ青春

4年前、初めて人生を激白した若大将

昭和は遠くなりにけり

特集 昭和は遠くなりにけり

北島寛の写真で蘇る団塊世代の子どもたち

西城秀樹 青春のアルバム

特集 西城秀樹 青春のアルバム

スタジアムが似合う男とともに過ごした時間

「舟木一夫」という青春

特集 「舟木一夫」という青春

「高校三年生」から 55年目の「大石内蔵助」へ

川喜多長政 &かしこ映画の青春

特集 川喜多長政 &かしこ映画の青春

国際的映画人のたたずまい

ある夫婦の肖像、新藤兼人と乙羽信子

特集 ある夫婦の肖像、新藤兼人と乙羽信子

監督と女優の二人三脚の映画人生

中原淳一的なる「美」の深遠

特集 中原淳一的なる「美」の深遠

昭和の少女たちを憧れさせた中原淳一の世界

向田邦子の散歩道

特集 向田邦子の散歩道

「昭和の姉」とすごした風景

あの人この人の、生前整理archives

あの人この人の、生前整理archives
読者の声
Social media & sharing icons powered by UltimatelySocial
error: Content is protected !!