文=林望
2010年1月25日号 PERSON IN STYLE《美しいとき》より
『君の名は』『おとうと』『約束』『化石』『細雪』などスクリーンに映る女優の美しさ。その著作物から香ってくる文筆家の知性。そして、会話の端々からうかがい知る正直さと、現代性。それらが一つになり、凛とした女性像へと結ぶとき、岸惠子さんは、気高さとも呼べる美の領域の人となる。
それは決して作られたものではなく、岸惠子という女性のあるがままの佇まいであった。
生得的に、遺伝子のなかに書き込まれた叡智の人
日本エッセイスト・クラブ賞を受けた『ベラルーシの林檎』の冒頭のところに、
「昭和二十年五月二十九日。横浜一斉空襲の朝のことである。私は十二歳だった」
とある。防空壕に人らないで独り外へ逃れたために九死に一生を得たという、その日のことである。その時、岸さんは「今日で子供をやめた」と思ったそうであるが、こういう経験のあり方は、ふと、スピルバーグの『太陽の帝国』の主人公の少年のそれを思わせる。戦争などの齎(もたら)すのっぴきならない生と死が、人をして子供たることを捨てさせる、そういうことがあるのである。
私自身は戦後昭和二十四年の生まれで、こういう命と引き換えの惨憺たる年齢通過儀礼は全く経験していないのだが、想像するに、こういう経験がその後の岸さんの人生に大きな意味を持たなかったはずはない。
この記述からして、岸さんは私より十六歳の年長だというわけなのだが、テレビや映画で見る彼女も、実際にお目にかかっての実像も、いやあ、どうしてもそのような感じがしないので驚く。十二歳で子供をやめた人は、その時から六十年経っても、なお凛とした「おとな」のまま微動だにしない。
岸さんが、単なる女優という枠を大きく逸脱して、たとえば、文筆家としての業績を着実に残して来られたことは、良く知られている。現にたとえば、その『ベラルーシの林檎』など、巻端(かんたん)をくつろげるや忽ち私を別世界へ拉(らっ)し去って、容易に放してはくれなかった。また、NHKの報道番組やドキュメンタリーの世界でも、あの独特の揺るぎない声調で世界各地、とくにふつうではなかなか行きにくい場所から、よくよく物の見えたレポートを送って来られた、そういうありようも、またこの子供を卒業した原体験と無縁ではあるまじく思惟(しゆい)される。
按ずるにたぶん、女優である岸惠子が本を書くのではなくて、こちらの本を書く人格が岸さんの実存であって、女優もテレビも、そこからの派生であるかもしれないような感じすらする。本来、岸さんは、そういう叡知の人であって、それはたぶん生得的に、遺伝子のなかに書き込まれたことであったに違いない。
だから、歳からいっても貫禄からいっても、まるで横綱と十両ほども違う格下の私としては、初めて岸さんにお目にかかるについては少なからず緊張を強いられたことであった。