文=安倍寧
雑誌¿Como le va? vol.22 表紙・早田雄二写真シリーズ第2弾
大向こうから〝コーちゃん〞と声がかかる宝塚歌劇団での人気を博した男役スターの時代にはじまり、『屋根の上のヴァイオリン弾き』『王様と私』などのミュージカル、市川崑監督作品をはじめとする映画に数々のストレートプレイ。越路吹雪は、いずれの土俵においてもけたはずれの魅力を発散した。
破格の大物ぶりでいえば、美空ひばりと並ぶ昭和のトップスターである。日生劇場での一ヶ月におよぶロングリサイタルは、1970年代当時チケットの入手が最も困難なライブステージとしても知られる。
「愛の讃歌」「ラストダンスは私に」「サン・トワ・マミー」「ろくでなし」などの曲は、越路吹雪の歌を通して、日本人にもなじみとなった。ショウ・ビジネスの生き字引的存在として知られる安倍 寧さんは、長年にわたり越路吹雪と交流をもち、ステージを見続けてきた。
安倍さんの筆と、写真家早田雄二氏の写真によりフランス香水のような越路吹雪の香しき像が浮かび上がる。
日本人離れした専売特許ともいえる個性と芸風
越路吹雪は、素顔のときはともかく、歌手、女優としては顔立ち、からだつき、仕草、雰囲気などのすべてがとてもバタ臭かった。西洋人の血が入っているように見えるというのとはちょっと違うのだけれど、どこか日本人離れした個性、芸風を感じさせるところが多分にあった。
シャンソンにしてもブロードウェイ・ミュージカルにしても、越路が挑戦したジャンルは、西洋からの輸入ものだったから、この非日本的な特性が大いに役立たないはずがなかった。
もっとも越路本人は、『王様と私』のイギリス人家庭教師にしても『アプローズ』のアメリカ人女優にしても、西洋人女性を演じている意識はまったくなかったのではないか。昔の新劇女優によくありがちだった西洋人らしく見せるという安手のリアリズムとは、はなから無縁だったと思われる。
一ヶ月分の切符があっという間に売り切れてしまう日生劇場での伝説的なリサイタルでは、越路はイヴ・サンローラン、ニナ・リッチのオートクチュールを見事に着こなしてみせた。頬高で両あごが張った顔立ち、1メートル70センチ近くあった高いタッパとパリの超一流ブランドのドレスとが、実にぴったりマッチングしていた。とくに背中を大きく開けたイヴニングドレスがとてもよく似合った。
幸いこのふたつの超有名銘柄のドレスについては、パリの本店が承認する仕立て人が東京にいたので、越路は堂々とプレタポルテではないオートクチュールのドレスを着ることができた。本店のほうも彼女ならオートクチュールを着るにふさわしい女性という認識があったにちがいない。
ドレスひとつとっても越路は日本女性の枠を遥かに超えていたのである。
日生のリサイタルというと、アンコールのときの姿が目に浮かぶ。
最後の曲を歌い終えると、舞台の左右から幕がするすると出て来て、その夜の主役の姿はいったん見えなくなる。客席ではすさまじい拍手が鳴りやまない。一分、二分、三分‥‥‥じゅうぶん間を置いて、中央で合わさった幕と幕の間からするりと長身の越路が現われる。満面にたたえた笑み、きらきらと輝くふたつのまなこ‥‥‥。その姿は今も私の胸深く刻み込まれている。
そう、よく越路はアンコールで片膝ついてこうべを垂れるポーズをとった。それがまた実にさまになっていた。あれはまさに彼女の専売特許で、もしほかの歌手が真似したらぶざまで見ていられなかったろう。
シャンソンをすべて日本語で歌った名人芸
越路吹雪は、多分はなからフランス語の発音は苦手と思っていたにちがいない、すべて日本語でシャンソンを歌った。悲しい歌、陽気な歌、なにを歌っても、シャンソン独自のエスプリにあふれた旋律に日本語歌詞を載せるのが驚くほど巧みだった。天が授けた名人芸と言ってもいい。
もちろん一心同体だった〝座付〟作詞家岩谷時子の存在も無視するわけにはいかない。
越路は、「愛の讃歌」「枯葉」「水に流して」などエディット・ピアフのシャンソンを好んでレパートリーにとり入れていたが、曲の解釈、表現ということでは〝ご本家〟とは大きく異なるところがあった。シャントゥーズ・レアリスト(現実派女性歌手)の代表格ピアフのように、歌に暗い影がつきまとうということが、ほとんどなかったのだ。
私は、越路の存命中から彼女を〝大輪の薔薇〟になぞらえてきた。姿かたちが大柄だったということだけではない。その表現のベクトルが常にいい意味で外向的だったからだ。その発するオーラがなんと眩しかったことか。
この私の〝越路吹雪〟小論は、彼女のバタ臭さから説き起こしたが、ラストにそれと相矛盾する彼女の特色をつけ加えておく。実は彼女、和服もよく似合った。ミュージカル女優としてのデビュウ作『モルガンお雪』で彼女が演じたのは、アメリカ人の大富豪と結婚する祇園の芸妓お雪さんだったが、ちょっと抜き衣紋にした首筋あたりの色気と言ったら‥‥‥。60年以上前の舞台(1951年2月帝劇で初演)なのに忘れようにも忘れられない。
越路吹雪は私の記憶のなかでは不動の現役であり続けている。
パリでエディット・ピアフのステージに大きな衝撃を受けた越路吹雪。「エディット・ピアフを初めて聴く。オーケストラ、ジェスチャー、アレンジの素晴らしさに私は悲しい。ピアフを二度聴く。語ることなし。私は悲しい。夜、一人泣く。悲しい、寂しい、私には何もない。私は負けた。泣く、初めてのパリで」と日記に書いた。
こしじ ふぶき
歌手、女優。1924年東京生まれ。宝塚歌劇団・月組公演『宝塚花物語』で初舞台を踏み、男役として戦中から戦後にかけて活躍。51 年には宝塚在籍のまま第1回帝劇コミック・オペラ『モルガンお雪』に主演、国産ミュージカル女優第1号となる。宝塚退団後は、主にミュージカルで活躍するほか、「愛の讃歌」「サン・トワ・マミー」など歌手として数多くのシャンソンの楽曲を紹介し〈日本のシャンソンの女王〉と称された。また、NHK 紅白歌合戦には52年に初登場以来、通算15回出場、64年のNHK 大河ドラマ「赤穂浪士」では浮橋太夫を演じ、現在も続く音楽番組「ミュージックフェア」の初代司会者を務め、映画では市川崑監督の『足にさわった女』『プーサン』『愛人』『ぼんち』などに出演するなど舞台以外でも幅広く活躍。舞台『屋根の上のヴァイオリン弾き』の森繁久彌扮するテヴィエの妻役、『王様と私』のアンナ役の初演はいずれも越路である。三島由紀夫とも交流があり、59 年の芸術座での主演舞台『女は占領されない』は三島由紀夫の書き下ろしによる。日生劇場でのロングリサイタルは69年から死去する半年前の80年まで、ほとんど春・秋の年2回開催された。80 年6月の舞台『古風なメロディ』(演出:宇野重吉、共演:米倉斉加年)終了後に緊急入院、同年11月7日胃癌のため死去。享年56。
あべ やすし
音楽評論家。1933 年生まれ。慶應義塾大学4 年生のときに日本のポピュラー音楽、レビューについて新聞・雑誌に寄稿を始め、60 ~ 90年代は、日本レコード大賞審査委員・実行委員、東京音楽祭国内・国際両部門審査委員を務める。65 ~ 66 年のシーズン以来、ブロードウェイ、ウエスト・エンドの主要作品のほとんどすべてを観劇している。80~00 年代にかけ劇団四季取締役として『キャッツ』『オペラ座の怪人』『ライオンキング』などの日本公演の企画・交渉に携わる。『ショウ・ビジネスに恋して』『ミュージカルにI LOVE YOU』『喝采がきこえてくる』などの著書がある。