文=四方田犬彦
2010年10月1日号 PERSON IN STYLE《美しいとき》より
昨年(2009年)上梓された岡田茉莉子さんの著書『女優 岡田茉莉子』は岡田さん自身の自伝であると同時に、女優論、映画論まで語られているスケールの大きい本である。
出演した映画、テレビ、舞台の記憶が掘り起こされ、役柄や演技のことまでがきちんと記録されている。それは、公私にわたるパートナーである吉田喜重監督の芸術家論にまで及ぶ。
曖昧さを一切排除した、知性的で明晰な文章で綴られる時代の証言。
そこから、岡田茉莉子という女優が、極めて客観性を持った人物であることが浮かびあがってくる。
岡田茉莉子という女優は実に多くの顔をもっている。お侠(きゃん)な鮨屋の娘から大新派メロドラマの主役まで、また世界の最前線にある前衛作品のヒロインから軽快なコメディエンヌまで。およそ日本映画のなかでこの人ほどその端から端までを踏破しきった女優もいないと思う。誰もが彼女の美貌と高雅な雰囲気を口にする。だがわたしはもうひとつ、彼女が類まれなる知性の人であるといい添えておきたいと思う。つねに自分の演技を分析し、自分を作り変えていく意志の運動を、その半世紀を越える俳優としての人生に感じるのだ。
わたしはある時まで三島由紀夫とその周辺にいた人たちの創る文学や映画に強く魅せられてきた。村上一郎や増村保造といった思想家や映画監督の作品には、どこかで三島と同じ時代を生き、その声に身近に接していた人に独特の雰囲気があった。それがいつ頃からか、谷崎潤一郎の世界に迷いこんでしまうようになり、すると奇妙なことに、谷崎世界の近傍にいる芸術家に知らずと心が向うようになった。というよりある人に強く心惹かれることがあって調べていくと、その人の生涯のどこかに谷崎が重要な道標として登場していたと気付くことが、最近よく多くなったのである。
わたしは偶然のことから、『痴人の愛』のナオミのモデルといわれる女優、葉山三千子を、最晩年に病床に見舞ったことがあった。また谷崎を深く敬愛し、その戯曲や短編を映画化した武智鉄二について、シンポジウムを開くことになった。谷崎との出会いがなかったら、この人たちの人生はまったく異なった、凡庸で取るに足らないものになっていたかもしれない。逆にいえば、谷崎は人の内側に眠っている才能を本能的に見抜き、作家に独自の直感からそれに方向を与えるろいう力に長けていたということもできる。わたしが今日心躍らせる多くのものごとの根源に谷崎が位置していると考えることは、彼の遺した作品の危険な美しさとは別に、大切なことのように思われる。岡田茉莉子さんもまた若き日に谷崎に出会うことで、女優としての道を歩み出した人だった。