出演した映画は180本くらいでしょうか。いやだと思った作品は1本もありません。岡田茉莉子
岡田さんが谷崎潤一郎に会ったのは18歳のときである。すでに谷崎は長年住み慣れた関西を引き払い、熱海の居を構えていた。自伝『女優 岡田茉莉子』(文藝春秋、2009) によると、それは梅雨の合間の晴れ渡った日で、岡田さんは白の半袖のブラウスに紅いコールテンのスカートという姿で谷崎家に通じる長い石段を登っていった。谷崎は和服姿だった。
「あなたが岡田時彦の、お嬢さんですか」
谷崎は確認するかのように、最初に尋ねた。岡田時彦とは谷崎が若き日に映画に情熱を燃やし、最初に製作したフィルムで主演を務めた美貌の男優である。戦前のモダニズムのなかで一世を風靡していた岡田を谷崎はこよなく愛し、岡田も谷崎の立ち振舞いから多くのものを受け取った。もっとも彼は不幸なことに30歳の若さで身罷ってしまった。岡田茉莉子はその忘れ形見である。老境に達した作家は突然眼の前に出現した少女を、おそらくプルーストであるなら「時の結晶」というであろう感情のもとに眺めていた。青春時代の愉しかった思い出が、一挙に心にこみ上げてきたはずである。
谷崎は岡田さんの半袖のブラウスから覗いている両腕をじっと見つめた。彼女は思わず隠すように両腕を抱いた。
「似ている。お父さんの腕と、よく似ている」
谷崎はそういうと、あらかじめテーブルに用意してあった白紙に毛筆で「岡田」と書き、それから「まりこ」という漢字をいく通りも書いてみせた。岡田さんの本名が鞠子だったからである。映画界に入るにあたって、芸名として好きな文字を選びなさいというわけである。ちなみに30数年前、岡田時彦という芸名を考案したのも同じ谷崎だった。
岡田さんは迷わず「茉莉子」を選んだ。「茉莉」の意味は知らなかったが、どこか異郷的で神秘的な感じがしたからである。
「この『茉莉』という字は、南方に咲く白い花の名前で、ジャスミンともいって、高貴な香りのする花です」と、谷崎はいった。おそらく彼は「真理子」でもなく、「麻里子」でもなく、「茉莉子」が選ばれたことに満足を感じていたはずである。
それからしばらく経って、岡田茉莉子のデビュー作『舞姫』の撮影が始まった。彼女は生まれてはじめて美容院に行き、自分でお化粧をすることを学ばなければならなかった。考古学者の娘として北鎌倉の裕福な家に生まれ、バレリーナを志すものの、両親の不和に苦しむ少女というのが、与えられた役柄であった。
これが女優岡田茉莉子の始まりである。それから後の、半世紀を越える彼女の偉大なる活躍ぶりについては、わたしがここで書くまでのことはあるまい。第一、それを書くには莫大な紙数が必要だし、先に挙げたご本人の自伝に向かうのが一番だからだ。彼女はみごとに茉莉の花にふさわしい高貴を、日本映画のなかに与えた。
だがそれにしても、とわたしは嘆息する。腕がよく似ていると、いきなり率直に口にしてしまう谷崎潤一郎とは、いったい何者だろう。わたしは(もしそれが可能ならば)彼が『エロス+虐殺』や『鏡の女たち』といった、吉田喜重監督による岡田さん主演作を観て、どのような感想を漏らすかを知りたいと思う。というのもこれらの作品に繰り返し登場する母親の追及、娘の追及とは、谷崎が平安朝を素材に描いてみせた永遠の主題のひとつでもあるからだ。