また、当時、アメリカのアカデミー賞をほぼ独占放送していたのもフジテレビで「ゴールデン洋画劇場」枠だった。これは大変な作業で、アカデミー賞は生放送で時間の長さは決まっていない。3時間だったり4時間だったりする。それを出来るだけ早く(と言っても当時はアメリカ放送終了後ビデオ編集)持ち帰り、実質は1時間35分前後に編集。しかも放送は、授賞式から1週間は過ぎているので、今だとニュースバリューも殆どないであろうが。ただ、ここで『炎のランナー』(1981年製作:1982/3アカデミー賞授賞式)がアカデミー賞作品賞や作曲賞を獲ったことが、後の『南極物語』に繋がって来るとは。
1981年、この年、テレビ局が映画製作、或いは映画出資の必要性を強く感じた分岐点だったかもしれない。
「映画部」に来て、最初に渡された企画書は『【ドラマ】タロとジロは生きていた』だった。
最初は「ゴールデン洋画劇場」を担当する部署がドラマを作る? ましてやその後、映画を作ることになるとは思いも寄らなかった。
だが、1億円のテレビスペシャル企画(最初は連ドラ企画)が10億円以上の製作費の『南極物語』に変化するのは、時間の問題だったのだ。
視聴率4位の会社に入社したが、1年後には1位になり、王貞治氏の代名詞だった「3冠王」をフジテレビが連発し、その後12年間(1982~1993)続いたことは、映画製作にも大きな影響を与えた。
なぜならフジテレビは広告媒体でもあり、宣伝力が飛躍的に伸びたからである。
「映画部」に配属されてすぐに神楽坂の「和可菜」の夜に遭遇した。老舗の古い旅館という感じだったが、実はここで脚本を創る人も多く、最初にすれ違った方は深作欣二監督だった。自分の役割は元南極観測隊越冬隊長や、元隊員の方にお酌をする・・・。髭茫々のワイルドな風貌の方も多く、誰が誰だか最初はわからなかったが、北村泰一氏は、映画『南極物語』で渡瀬恒彦さん演じるモデルの人だった。
それからは毎日のように四谷(当時は本塩町)の教科書センターに通って、主に小学校の教科書に「タロ・ジロ」の項があると片っ端からコピーした。また、本屋に行って「南極」とか「昭和基地」などの写真集などがあれば、すべて資料として購入した。
ドラマ「タロジロは生きていた」の企画を『キタキツネ物語』のサンリオが製作していたら、フジテレビの出番はなかったかもしれない。映画部が、『キタキツネ物語』最高視聴率の御礼のお花を蔵原監督のご自宅に送ったことを喜んでいらしたことは、後日直接うかがった。映画が生まれるときは、ひょんな縁から、というのが非常に多い。一生懸命、机の前で試行錯誤して映画が生まれた経験は一度もない。仕組まれているわけではないが、この〝縁〟というキッカケはなかなか計算できない。特に、『南極物語』クラスの映画になると数々の縁が結び付いた結果である。〝奇跡〟という言葉が紙面に踊ることが多いが・・・。
映画『南極物語』の制作、撮影などに関しては、蔵原惟繕監督、弟の蔵原惟二プロデューサーを中心とした<蔵原プロ>が請け負うことでプロフェッショナル集団による映画制作となった。では、フジテレビは何の役割が・・・
制作=production、製作=present(提供する)と考えると、製作の大きな役割は、どれだけの制作費で、どういうキャストで、どのように宣伝して観客に届け、最終的に収支をプラスにする・・・。そもそもを考えると、この映画製作をやるのか、やらないかの判断をすることが最重要課題である。