今も趣味でもある毎週の競馬、麻雀、そして映画と、仕事も遊びも徹底的に面白がって楽しんでいた森田監督の影響が僕の中に色濃く存在している。
映画は東宝の8月後半邦画系公開だったが、上層部から突然、大人気だった「おニャン子クラブ」の映画も作ろう! となり、たった数日の彼女たちのスケジュールしかない中、7月に撮影して『そろばんずく』と『おニャン子・ザ・ムービー危機イッパツ』(1986)の二本立てで公開した。スケジュールが取れず、ポスター撮影も出来ず、原田眞人監督と僕たちの危機一髪だった。
「製作補」「プロデューサー補」のクレジットで参加した映画は多い。ただ上司からは「連ドラ」の映画化と「アニメ」の映画化はいつでも出来るから、オリジナル企画(原作ものはOK)で頑張ろう! ということを言われていた。
そんな中、『スケバン刑事』(1987)の映画化は正にその連ドラの映画化で、自分のクレジットは出ているが、東映&フジテレビ(編成)主導の映画化である。次作『スケバン刑事・風間三姉妹の逆襲』(1988)も、今年亡くなった東映前社長の手塚治氏と自分がプロデューサークレジットで並んでいるが、これも東映と、番組を企画したフジ編成部との共同製作である。この頃は、映画製作にはやはり映画スタッフ中心で組成することを心がけていたが、のちに、35ミリ撮影がHD 撮影になり、連ドラのスタッフ中心の映画製作へと変わって行く。
東映のお正月映画、南野陽子主演の『はいからさんが通る』(1987)は、僕がプロデューサークレジットされているが、企画を立てて進めたのは東映の若手プロデューサーたちである。コミック(大和和紀:著)はベストセラーだったが大正ロマンものだった。上司でもある岡田裕介氏が反対してるとのことで、僕から「裕介さん」に「これはイケる!」と連絡してほしいとのこと。また、個人的に就職相談をされていた当時大学生の阿部寛氏のデビュー作にもなった。僕は、芸能界には向いていないので就職したほうが・・・と思ったが、東映のプロデューサーは「絶対イケる!」と抜擢した。この手は自分も使わせてもらった。社内でなかなか企画が通らない時に、配給会社に助っ人を求めて・・・。これで映画化が実現したことが数回あった。
かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。