これはユーミンの楽曲「サーフ天国、スキー天国」(1980)から取ったタイトルであろう。シナリオとしては至らない点も多かったが、〝ユーミン命〟であることは察しがついた。しかもラストは苗場のユーミンのコンサート(今も継続中だから凄い)で事件が解決する。そして、ラストにユーミン本人が登場するシーンも。ユーミンに会いたいだけなのか!?
僕も大学生になって最初に買ったアルバムが『MISSLIM』(1974)だったので、共感しながらも、フリークのレベルが違い過ぎてツイて行けないところも。しかも商業映画の経験の無いホイチョイチーム(僕も製作補やプロデューサー補の経験しかない)にユーミンの楽曲が提供され、しかも本人が出演するなんてあり得ない……。これが第一印象だった。
目の前の馬場さんは日立製作所の社員で、いつもネクタイをビシッとして、かつ「気まぐれコンセプト」を連載するコンセプト集団の代表である。
しかし、このシナリオには何か時代の空気が詰まっていると感じた。〝バブル〟の命名はこの後で、この映画は象徴のように言われたが、我々には〝バブル〟の感覚は無かった。僕は、たまに苗場でスキーをする程度だったが、確かにユーミンの曲が流れていた。
フジテレビの同年代の仲間たちには「これこそ自分たちの世代の映画だ!」と好評だったが、年齢が上がるに連れ、「これは映画じゃないだろ」「ユーミンのプロモーションビデオだろう」と不評で、「そうかな……」と思うこともあった。
ただ「面白くなければ・・・じゃない!」のフジテレビのステーションコールのように、若手の中では大いに盛り上がっていった。
第一に考えたのは「テレビドラマ」との差別化だった。テレビドラマではない、テレビ局が作る映画。
当時、映画企画制作集団だった<メリエス>のプロデューサーの面々に会えたことが、後の『私をスキーに連れてって』の完成に繋がって行く。
<ホイチョイ>という、商業映画は素人集団(僕も駆け出しのようなもの)に、<メリエス>という映画集団が関わったことで、「テレビドラマのような映画」では無く、「映画」として誕生出来たのである。
勿論、何よりも馬場康夫氏のユーミンに対するリスペクトがあって完成に漕ぎつけたと言える。