ユーミンの詩があって、シナリオが作られる。普通はシナリオがあって音楽を付けて行くことが殆どだが、「詩・曲」があってそれにシーン(映像)を付けて行く感覚。
映画が公開されて「映像にぴったりユーミンの歌がはまってますね!」と言われたが、当たり前で正確には「ユーミンの歌に映像をピッタリくっ付けている」と言うべきか。
シナリオライターの一色伸幸氏も大変だったに違いない。むしろ、正統派映画脚本家でもある彼の常識では考えられないことも多々あったろう。まだ、20代半ばで、凄い柔軟な対応で、オリジナリティを発揮してもらった。彼が「スキー天国」(仮)を映画のシナリオにしてくれた。
メガホンを取ったのは、馬場康夫氏である。脚本を作り始めたころは、「誰が監督するんだろう?」と本気で思っていた。日立製作所の勤務を終えた5時以降、フジテレビ社内で一緒に脚本打ち合わせをやっているネクタイ姿のサラリーマンを見ていて、撮影現場での映画監督の姿を想像できなかった。ホワイトボードにスキー人口の増加グラフや、遊びのアイテムの数々を自らが描いているこの人に監督が務まるのか……。まさに宣伝部の人がマーケティング戦略のレクチャーをしている風景だった。
結局、「馬場さんしかこのスキー映画を撮れる人はいない!」ということになった。元々、移動手段の一つだったスキーを、ここまで娯楽エンタテインメント(映画)に出来る監督は当時、他に見当たらなかった。
馬場監督からの大きなリクエストは一つで、撮影を長谷川元吉さんにお願いしたいと。日立製作所の企業CMを撮っていた関係で、馬場さんが昔からリスペクトしていたと言う。実は、僕は『おニャン子・ザ・ムービー危機イッパツ』(原田眞人監督:1986)で、たまたま御一緒したので既知の仲だった。
撮影以外は主にメリエスのメンバーが人選してくれた。
『南極物語』で出会った同世代の編集マン(当時は編集助手)の冨田功氏。彼がいなければ、完成も危うかったかもしれない。恩人である。馬場監督にも、手取り足取り? 編集のイロハから映画とは何か! まで語り続けてくれ、同時に僕も随分勉強させてもらった。その後、冨田氏とは『病院へ行こう』等10本以上の映画を一緒に創った。残念ながら45歳での早逝だった。
『私をスキーに連れてって』はテレビ局のノリと、映画スタッフとの合体の成果物である。
20代中心の若手メンバーで<フジテレビアソシエイツ>を結成し、編成から営業まで部署を取っ払ったチームになった。それでも最終ジャッジするのは幹部(管理職)なので世代ギャップは大きかった。 たとえばタイトルも、最初の印刷台本は僕が妥協案として出した「白い恋人たち‘88」だった。20代が考えるタイトルに40代以上はついて来れず、最後まで決まらなかった。結局アソシエイツの一人が「私を野球に連れてって」(大リーグで7回表終了時に球場で歌う歌/同名の映画もある:1949米)と『私を月まで連れてって!』(竹宮恵子著の漫画)をもじって『私をスキーに連れてって』はどうでしょう? と。
「これだ!」と思ったものの、上層部の一部からは猛反対。「それは映画じゃなく、PV(MV)のタイトルだろ!」と言われたものの、若手で押し切った感じになった。今の自分が逆の立場だったら……とふと考えることがある。
オリジナル映画の場合は自由にタイトルを付けることが出来る。しかも誰でも参加できる。故に紛糾することは多い。
過去形で、になるが、一度も「私を野球に~」のパクリですよね、と言われたことがない。しかも映画が話題になったおかげで「私を~に連れてって」は流行語のようになった。ただMLB中継を見るたびに「私を野球に連れてって」が自分の頭の中を過るのである。