ちなみに、当時は山田五十鈴、高田稔、英百合子の三人が成城住まい。原節子は祖師谷の円谷英二邸の二階に下宿していた時期があり、これは終戦後のいっときのことだったという。原が1948年頃に狛江の電力中央研究所西側(現在の岩戸北二丁目10)に広い土地(註3)を得て、鎌倉に移住する64年まで当地に住まったことはよく知られるが、それ以前に住んでいた家についてはあまり語られたことがない。
これは、東宝関係者の親族にあたるA氏が、20年ほど前に松林宗恵監督から聞いたという‶驚愕〟エピソード。
A氏によれば、松林監督はかつて成城にあったB氏邸から原節子が古澤憲吾(クレージー映画や若大将シリーズを手がけた監督)と二人して、親密そうに出てくる姿を目撃、「二人は関係がある」と直感したというのだ(註4)。これが本当の話なら、原はこのとき成城の住宅に住んでいて、もしかすると古澤監督と親密な間柄にあった、ということになる。
筆者の調査により、B氏邸は成城に実在し(現在は転居)、若き日の三船敏郎や岡本喜八など、東宝の俳優や助監督たちに部屋を貸す「素人下宿」だったことが判っている。ただ、原がB氏邸に住んだとしたら、当然ながら狛江に家を持つ1948年以前のこととなり、このとき古澤はまだ助監督(市川崑、渡辺邦男、松林宗恵組などに就く)の身分。原とそうした関係になるのは、少し若過ぎるような気もする。
しかし、浄土真宗の寺の息子として生まれ、僧籍も持つ松林監督であるから、いい加減なことを吹聴するはずはない(註5)。ましてや、古澤は自分の組の助監督なのだ。松林がその顔を見間違うことも、まずあり得ない。古澤自ら「原節子は俺に惚れていた」と公言したり、田中寿一氏(東宝から三船プロに移る)が「古澤憲吾は原節子にご執心でした」と語ったりしていることからも、この目撃談(と推測)はかなり信憑性が高いとみるが、果たして真相やいかに(註6)。