夏休みに「雨の~」だと、ちょっと淋しいのでタイトルを『水の旅人 侍KIDS』に変更してもらった。決まっているのは、「1993年夏休み東宝系公開」「監督:大林宣彦」「音楽:久石譲」だけだった。勿論「配収20億円以上!」は決まっていた。映画館が減り続け千数百館(現在は3500スクリーン)となり、夏休み大公開でも百数十スクリーン(今なら300スクリーン以上か)で、邦画はピンチの時代でもあった。
大林宣彦監督は映像の魔術師とも呼ばれていたが、あまり今回の「特撮」(ハイビジョン合成)には興味が湧かないことを後で知った。僕は何となく『時をかける少女』のようなファンタジー感を期待していたのかも知れない。ある意味では、大林監督なら映像は頭の中にあり、シナリオなどが仮に無くても撮れる人かもという意識はあったが、今回は〝ヒット必須〟であり、しかも僕が気にいったシナリオが既にあり、大林監督もにこやかに引き受けて下さっていた。
撮影の数日前に、オールスタッフ打ち合わせを東宝成城撮影所で行なった。スタッフ全員が参加し、チーフ助監督MCの元、監督とスタッフが撮影シーンを共有する場である。監督は遅刻、監督からはシナリオの潤色(直し)をやってオールスタッフに間に合うように……との事だったが、間に合わなかった。2,3日後には福岡から撮影開始だが、脚本がなかった……。
結局、毎日、監督の書く、手書きのコピーがシナリオになった。「潤色」の意味を自分が間違えていたのか、全部「書き換える」とは思わなかった。
スタートで躓くと、なかなか元の軌道には戻せない。しかも、シナリオが事前に無いのでスタッフも動けない。明日の撮影場所が決まらない状態の中で、何とか持ちこたえていたが、物理的にギブアップになった。こうなると新たなスタッフを投入するしかない。別班A班、B班と、どんどん膨らんで行く。1月クランクイン、3月アップの予定が、ずるずると延びていく。監督作品『青春デンデケデケデケ』(1992)が日本アカデミー賞に入ったので東京へ戻る大林監督に見張り番として付いて行って、一刻も早く現場に戻ってもらわねばいけない。
撮影が延びているので上司に「一度、東宝撮影所に来てもらって大林監督にビシッと!」という依頼をした。結局、現場に来て「監督、頑張ってください!」と激励はしてもらったが、自分としては「もう頑張らなくていい!?」と言ってほしかったのだ。上司と熱い握手をした監督が「河井さん、上司もお墨付きでOKだね」と理解不能なリアクション。それでも憎めない愛すべきキャラなのだが……。
大林監督と話すのは面白く、楽しい。しかし、100人を越すスタッフの中で「もう撮影ストップ!」などと言えるのは、悲しいかな、プロデューサーだけである。既に4月アップもままならぬ状況。スタッフの数も膨れ上がり、予算も当然オーバー。軌道修正も上手く出来ず、撮影は5月にずれ込む。3月アップ予定で2か月のポスプロを経て5月末完成、7月17日公開。この最後の「公開日」は発表もされており、ずらせないのだ。
此方で最初に印刷した台本は、大きく書き換えられ、10%程度しかオリジナルの内容は残っていない状態。しかも、日々、書き換えられるので結末はわからない。スタッフも準備の時間がなく右往左往である。