それから石井竜也監督の第2作目への意欲は半端ないものになっていった。
話を重ねながら次作映画の構想は「人魚」になった。
遠い昔、人類(ホモ・サピエンス)は海から陸に上がった。今でも人間と人魚、その間で生きている何かがいるのではないか……彼らの生き方や恋愛とは……。
また、壮大な話になった。
「アクエリアス(Aquariius)=ラテン語で水」と合体して「ホモ・アクエリアス」と名付け、タイトルは『ACRI』(1996公開)となった。
今度の映画はクォリティ面でも、クォンティティ(観客数)でも『河童』を上回らなくては。原案=石井竜也。それに、お互いをリスペクトしている作家の吉本ばななさんが「ストーリーライン」を書いてくれることになった。僕は岩井俊二監督の『Love Letter』(1995 公開)を製作している時で、脚本を岩井俊二さんが、手掛けてくれることになった。
原案=石井竜也、ストーリー=吉本ばなな、脚本=岩井俊二。理想的な布陣だ。
4人でオーストラリアの孤島! へ行き、構想を練った。今考えると、贅沢な時間を過ごさせてもらった。『タスマニア物語』(1990)の経験もあり、オーストラリアのワーナースタジオ等の協力も得られ、ほぼ全編オーストラリア撮影になった。
撮影監督の長谷川元吉さんら『河童』に参加してもらった数人の日本人スタッフ以外は、殆どオーストラリアのスタッフでやることになった。予算の立て方や、日々の撮影スタイル、ポストプロダクション(編集や仕上げ)もすべて現地でやることにした。ほぼハリウッドスタイルである。隣のスタジオ(部屋)には『ミッション・インポッシブル』(1996)のチームもいた。
ここまでは、理想的な展開だったが、好事魔多し。
一つは、シナリオだった。とても素晴らしい脚本を岩井さんが書いてくれて、印刷台本にした。ただ、「ダーウィンの進化論」など、やや科学的な箇所が多く、石井監督が描きたい「人魚の愛」的なところとは少し異なっているのかなとも感じていた。岩井さんが監督するなら問題ないな、とも。残念なことに、最後の3人の打ち合わせのあと、新たなシナリオを別の脚本家で書くことになった。のちに、岩井さんが書いたシナリオを原案に、自身が小説化し『ウォーレスの人魚』(1997/出版)のタイトルで出版もされた。
この段階で頼れるのは『河童』を書いてくれた末谷真澄さんだ。速攻でお願いし、そこからは石井&末谷の脚本制作の日々となる。オーストラリアの撮影まで半年は切っていただろうか。撮影開始は1996年1月後半と決めていた。
個人的には岩井俊二監督『スワロウテイル』(1996)と同時並行の製作で、此方は2月撮影スタートだった。
もう一つの問題はキャスティングだ。
僕は、初めてジャニーズ事務所のトップスターにオファーした。これは企画の段階から、監督の頭の中にあった。一方で、不思議な魅力があり、クォーターでもある浅野忠信さんも当初からイメージではあった。
ただ、配給の東宝から、夏休み後半の邦画系でどうか? と有難いオファーもあり、ヒットを目指さねば、という思いも強かった。
共演は、誰でも知っているハリウッドのスターにオファーした。これも契約を交す段階まで漕ぎつけた。ところが、撮影の1か月前、ある事情で国外に出られなくなった。この時はショックだったが、ジャニーズの俳優にも暗雲が立ち込めていた。