『スワロウテイル』を実現化する為、戦略変更&方向転換をした。
幸いにフジテレビ社内にはすでに〝岩井シンパ〟が存在していた。映像企画部(ビデオ部)なら、昔で言う〝Vシネ〟が制作出来る。そして腕試しではないが、編成枠で、ゴールデンタイムで視聴率を獲れる2Hドラマを制作出来たら。
僕のプロデュース作品でなくとも『スワロウテイル』に繋がることを願っていた。言い方を変えれば<岩井俊二>そのものをプロデュースして、評価が高まったところで『スワロウテイル』の実現化を目指すというような。
ビデオ作品として『Undo』(1994/45分)と『Picnic』(1994/公開は1996/72分)が作られた。『Undo』には既に岩井俊二シンパとも言うべき豊川悦司&山口智子が主演してくれた。一方『Picnic』は『スワロウテイル』の布石ともなるCharaと浅野忠信が主演してくれた。ここでCharaは試されたとも言える。
世間にも岩井シンパが現れていて、ビデオストレート予定だった『Undo』はシネスイッチ銀座で限定レイトショー公開をやり大盛況となった。後に『Picnic』も劇場公開になる。
最初のハードルは「Love Letter」の2時間ドラマでの制作だった。色んな見解があるが、自分の理解では編成サイドからの「視聴率が獲れそうにない」だった。決めるのは優秀な編成部だ。自分でもそう感じてはいた。主演の女優の件など他にも問題はあったが、やはり15%以上の数字の壁は厚かったのだろう。
テレビドラマとしての「Love Letter」が無くなり、ちょっと計画が狂った。
強引だとも思ったが、ここで引くわけにも行かず『Love Letter』の映画化を試みることにした。当然、会社としては後ろ向きだった。決定的にNOになったのは、僕が中山美穂を主演にして進めようとした時だった。
この問題も個人としては理解が出来たが、若気の至り? もあり、突っ走る道を選んだ。フジテレビ及びポニーキャニオンからの出資はゼロ。しかも中山美穂の事務所の社長は大反対。今、考えると先方の言うことの筋は通っている。遡ること3年前の『波の数だけ抱きしめて』(1991)に主演してもらい、興収20億円前後のヒット作になった。月9ドラマを中心に彼女は20%の視聴率ドラマの主演の常連だった。ちょうど「世界中の誰よりきっと」(1994)の歌が大ヒットしている頃だ。
事務所の社長からは「河井さんがやるならメジャーでヒット出来る映画に出演させて下さいよ」。これは御尤もで、逆の立場なら僕も同意見だったかもしれない。当時、社長も、中山美穂も岩井俊二の存在は知らなかった。まだ長編映画のデビューもしていなかったのだ。マネージャーは前向きで応援してくれ、中山美穂本人も前向きだった。