1932年、東宝の前身である P.C.L.(写真化学研究所)が
成城に撮影用の大ステージを建設し、東宝撮影所、砧撮影所などと呼ばれた。
以来、成城の地には映画監督や、スター俳優たちが居を構えるようになり、
昭和の成城の街はさしずめ日本のビバリーヒルズといった様相を呈していた。
街を歩けば、三船敏郎がゴムぞうりで散歩していたり、
自転車に乗った司葉子に遭遇するのも日常のスケッチだった。
成城に住んだキラ星のごとき映画人たちのとっておきのエピソード、
成城のあの場所、この場所で撮影された映画の数々をご紹介しながら
あの輝きにあふれた昭和の銀幕散歩へと出かけるとしましょう。
戦後(1946〜48年)に勃発した「東宝争議」の余波を受けて設立されたのが、新東宝という映画会社だ。当初は、ストで映画がつくれない東宝に代わって作品を供給する〈子会社〉として機能していたが、やがて東宝が自主製作を開始すると、新東宝は独自配給路線に転換。文芸作品から戦争もの、喜劇、音楽映画まで、バラエティに富んだ作品を劇場に送り続ける。56年に大蔵貢が「エログロ・怪談」路線に転換してからは、いかにも怪しげな映画を量産し、まさに玉石混交というに相応しい作品群を残した。
こうした新東宝作品をコンスタントに上映する映画館に、「シネマヴェーラ渋谷」という名画座がある。2023年秋に当館が特集上映を行った際、その一週目から〝成城ロケ映画〟が立て続けに六本見られるという椿事(?)が起きた。最終回となる今回は、これらの作品を特集させていただきたい。
連載第29回で「美空ひばりが単独で成城の街を歩く映画は、今のところ発見されていない」と書いた矢先に、早速この言を訂正せねばならない作品にぶつかる。
それは、‶喜劇の神様〟斎藤寅次郎による『続向う三軒両隣り 第三話 どんぐり歌合戦』(50年)という群像喜劇。元は1947年から六年に亘りNHKで放送された連続放送劇(ラジオドラマ)で、これが48年に新東宝で映画化され、本作はその三作目にあたる。柳家金語楼扮する人力車夫が暮らす町には失業者や新興成金など様々な人が住み、そこに戦災孤児や引揚者も加わり、戦後の貧しい時代を懸命に生きる姿が描かれる。
失業中の元エリート高等官(江川宇礼雄)の娘・孝子(美空ひばり)は家計が火の車であることから、小学生ながら父母に内緒で〈納豆売り〉の仕事を始める。商売に際して歌うのは「納豆売りの歌」。なんとひばりは成城のお屋敷街で商売を始めるのだから、驚き以外の何物でもない。
実際、成城と設定されているわけではないが、町なかに鉄塔がそびえていることと、道路脇に立つ掲示板に「ほしの理容室」の店名が見られることから、ここが成城であることは明らか。そしてその場所こそ、成城学園正門前の「いちょう並木」の先、『ニッポン無責任時代』でハナ肇の氏家社長邸となった旧中村邸や「ウルトラQ」で一の谷研究所となった旧龍野邸がある大通り。ここでは『お姐ちゃんはツイてるぜ』で中島そのみが車をぶっ飛ばすシーンや、大林宣彦監督の個人映画『ÉMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』などが撮影されている。「太陽にほえろ!」でも、成城でカーチェイスと言えば、この通りにとどめを刺す。
ちなみに、「星野理容室」の顧客の一人には三船敏郎がおり、監督の斎藤寅次郎は本作公開の二年後、1952年から成城に住む。
『どんぐり歌合戦』のタイトルのもととなった子供たちによる演芸大会の場でも、ひばりは「長崎シャンソン」など数曲を披露。彼女を見に来たものか、劇場に駆けつけた〈ひばりファン〉と思しきお姉さまたちが、終映後に大きな拍手を寄せていたのも、根強い〈ひばり人気〉を示している。