1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。
『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。
テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。
この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。
それまで僕が関わる映画=長編映画だった。
1999年に、友人でもあり、プロデューサーと俳優の関係で一緒に『波の数だけ抱きしめて』(1991)等の映画を一緒にやった別所哲也さんが発起人(現在は主宰)で「アメリカン・ショートショートフィルムフェスティバル」を原宿でスタートさせた。彼とは僕がフジテレビで担当していたアカデミー賞の放送などでも一緒に仕事をした。
そういう関係もあり、第3回の映画祭(2001)の審査員を依頼され、殆ど短編映画には造詣はなかったが、同じ審査員として小錦さん、天海祐希さん、村上龍さん……と聞いて一応僕は映画の人間だし、と受けてみた。1人だけプロと言えるアカデミー賞の短編部門受賞監督の伊比恵子さんがいた。計5人だ。
カンヌ国際映画祭短編部門のパルムドール受賞『おはぎ』(デービッド・グリーンスパン監督)も特別上映されたりして、審査員としても多くの短編映画を観ることが出来た。世界中の作品を観て、ドイツやオーストラリア、アラビア語の映画もあり、どれも面白かった。ただ、残念ながら、日本の作品は世界に比べると物足りなかった。当時は配信の時代でも無く、なかなか短編映画を作っても日本で観てもらえる機会は少なかったことも影響していたと思う。
原宿の会場で、別所哲也さんと、『らせん』(1998)、『アナザヘヴン』(2000)を一緒に創った飯田譲治監督と3人で話しながらそんな話になった時、別所さんから「何とか面白い短編映画を創って下さいよ……」的な会話になり、僕は適任では無いと言った記憶があるが、飯田監督は「短編は面白いよ!」となった。長編の話しかしたことが無かったので、ちょっと意外な気もしたが、そうなんだと他の監督にも聞いてみることにした。
岩井俊二監督に話をすると「良いですね」となり、行定勲監督は、会うといきなり「賞を取るならこんなストーリーはどうか、エンタテインメント作品なら、自分が高校時代に体験した体育の授業での【ブルマ】の話とか……」。【ブルマ】で行こう! となった。
『VERSUS―ヴァーサス―』(2000)という、ほぼ自主映画だが、とても面白く、過去に大阪から東京に僕を訪ねて来てくれた北村龍平監督も即決。コメディ映画を期待して堤幸彦監督、『月とキャベツ』(1996)が大好きだった篠原哲雄監督、エロティックな作品を期待して『皆月』(1999)の望月六郎監督。そして最初に話をした飯田譲治監督の7人にした。8人に声をかけてみて『きらきらひかる』(1992)で一緒だった松岡錠司監督以外は、とても前向きだった。むしろ松岡監督の「今は、短編映画は……」という答えが多いと考えていた。
そんな流れで、地味と思われていた短編映画だが、僕ではエンタテインメント作品を目指した。