1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。
『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。
テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。
この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。
香港との合作映画『孔雀王』(1988)の経験はあったが、その時は相手のゴールデンハーベスト社とフジテレビの関係からスタートした。
今回の2006年日本公開の日韓合作映画『力道山』は個人的な関係から始まった。
きっかけは、日本で『八月のクリスマス』(1998/韓国映画)の試写会に配給会社から招かれ、新橋で映画を観たことだった。上映終了後、ホ・ジノ監督を紹介され、「とても面白かった!」と言ったあとに、あまりに主演女優に魅かれたのか「シム・ウナ主演で一緒に映画やりませんか!」と僕が言ったらしい。「らしい」というのは自分の記憶が定かでないからだが、その後、監督は1年以上に渡り、シナリオ執筆をすることになる。
ここで、プロデューサーでもあり製作会社(ウノ・フィルム)の社長でもあったチャ・スンジェ氏との出会いがその後の『力道山』、それだけでなく、その後何十回と韓国に行くことにもなる。僕が最もリスペクトする映画人である。彼は『ほえる犬は噛まない』(2000)や『殺人の追憶』(2003)などのポン・ジュノ監督作品から、日本のドラマの映画化『私の頭の中の消しゴム』(2004)など幅広く製作し、同世代で初対面時から気が合った。
ちょっと残念だったのは、ホ・ジノ監督がシナリオ執筆中に、シム・ウナが突如引退してしまう。シナリオが1年以上かかって遅れていたが、何より「シム・ウナ主演」が無くなったことで、日本の出資者も一旦いなくなってしまう。
そんな時、香港の監督で、プロデューサーでもあるピーター・チャンから連絡が来る。彼との付き合いは『孔雀王』くらいからと古く、彼の監督作『君さえいれば/金枝玉葉』(1994香港/レスリー・チャン&アニタ・ユイ&カリーナ・ラウ)は大好きな映画だ。
思えば僕が『リング』(1998)を製作した時も連絡があり「一緒にホラーでオムニバス合作しようぜ!」と。僕はやってもいいかと思ったが中田秀夫監督のノリもイマイチ? でそれは流してしまった。その映画のタイトルは最初『FOUR』と言った。4人の監督で4作のオムニバス。日本が抜けて『THREE/臨死』(2002)となり、3人の監督(キム・ジウン『甘い人生』&ノンスィー・ニミブット『ナンナーク』&ピーター・チャン」)で香港・タイ・韓国の3か国合作映画となり、日本でも公開された。紆余曲折あっても実現化する香港パワーおそるべし。
そのピーターがホ・ジノ監督に興味を示し、僕がやっているのを知って、製作にも参加したいと。ただ、シム・ウナの件もあり、自分では前に進みにくい感じだったが、「やろう! やろうよ!」とのことで、韓国でチャ・スンジェら皆で会った。ピーターの親友のジャッキー・チェンもいて、なぜか朝までジャッキーともカラオケに行った記憶がある。覚えているのはちょうど『ラッシュアワー2』(2001/米)の頃で、「ハリウッドのギャラ幾ら?」と聞くと「16億円位(当時のレート)」と答えてくれた気がする。「韓国や日本映画だと全く値段が合わない!」と言うと「その場合は1億円以下で良いんだ!」と言ったような。カラオケの途中の会話なのでさて……。『孔雀王』(1988)の時は,此方からジャッキーにオファーしたが、「1億2000万の出演費」と香港サイドから言われて諦めたことは覚えている。