1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。
『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。
テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。
この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。
テレビ局にいながら、ほとんど映画製作中心だったため、連続ドラマをきちんとやったことがなかった。
まさかフジテレビ以外で、しかもゴールデンタイムで……。
『アナザヘヴン』は飯田譲治氏のベストセラー小説で、文庫本は100万部のミリオンセラーになっていたと記憶している。映画『らせん』(1998)をお願いしたときは、実はこちらには心苦しい点があった。
元々、フジテレビの2Hドラマ「リング」(1995放送)の脚本は飯田譲治氏だった。その時、僕は2H枠担当のフジテレビ編成部にいた。その直後『スワロウテイル』(1996)の製作のため、フジテレビを出てしまうが、そこでまた『リング』の映画化に出くわす。『女優霊』(1996)を観せてもらったせいで、中田秀夫監督でやることに迷いはなかった。
『リング』のシナリオ制作が遅れたせいで、『らせん』の脚本に着手出来ない。続きものなので『らせん』は『リング』の結末待ちだ。1998年の1月に『リング』『らせん』の公開は決まったものの、3か月前の段階で『らせん』はシナリオも無く、監督も未定だった。誰かのサジェッションのお陰かもしれないが、その追い込まれた段階で、必要なのは鈴木耕司さんの世界観がわかり、かつ『リング』を知っていて、理想的には脚本も1か月以内に書いてくれて、出来れば監督もやってくれる人……飯田譲治監督しかいない! となった。
結局『らせん』の完成は公開月でギリギリだった。それでも2本の映画は大ヒット、Jホラーという称号ももらった。ただ、そこから『リング』だけが独り歩きすることになる。プロデューサーとしては、よくぞ『らせん』を創り上げてくれたと感謝しているが、『リング』のインパクトがあまりにも強すぎた。
そこで飯田譲治原作でもあるベストセラーをテレビも交えてやるのはどうかと。実は『リング』『らせん』の続編を角川歴彦さんからも熱望されたが、諸般の事情もあり僕は降りた。その代わり映画『リング2』(1999)のブームアップも兼ねてフジテレビの木曜22時からの枠で連続ドラマ「リング~最終章~」(1999年1~3月/主演:柳葉敏郎/長瀬智也)を放送した。フジテレビが高視聴率の時代で平均19.9%を獲った。
原作は男主人公だったが、映画では女性をメインに変更した。ドラマ版では原作通り2人の男主人公にした。僕は『リング2』も連続ドラマの方も、成立後は、ほとんど関わらなかった。原作は同じだが、映画版とテレビ版はまったくと言っていいほど関連性を持たなかった。ドラマは視聴率も獲ったことで半年後に「らせん」(1997年7~9月/主演:岸谷五朗)が放送された。
そんな中で、テレビ朝日から映画+ドラマで「アナザヘヴン」を一緒にやりましょう! との話になり、だったら最初から「映画」と「ドラマ」のドッキングの狙いを決めて行きましょうとの話になった。