結局、思いつかずに制作発表を迎えた。釈由美子プラス衣装(着物)の出来、見栄えが素晴らしく、スポーツ紙等は取り上げてくれるだろう。それでも10話を通して引き付ける何かが欲しい。
釈さんは僕にはない霊感があり、見える時があるという。オカルトやホラードラマではないのであまり強調することはなかったのだが、突如、閃いて? しまう。
その時の行動は自分ではあまり覚えていないのだが、釈さんや北村龍平監督ははっきり覚えていて、今でも言われたりする。
毎回、ドラマのラスト付近で、主人公イズコが、相手の行き場所の選択によって「お行きなさい」或いは「お逝きなさい」と言う。原作通りだ。ただ、静かに、アクションも無く。目の前の釈さんと話しながら、この衣装でアクションをやるのが面白いのではと。『修羅雪姫』である。珍しく、自分でも演出側の気分になり、釈さんが{見えている}何かに向かって、大きくポーズをとり、指さして「お行きなさい!」と。水戸黄門の印籠の登場するシーンではないが、〝メリハリ〟が欲しいと思った。
ノリの良いスタッフ、キャスト連だったので、その場で「これで行こう!」とのことになり、全話で「お逝きなさい!」が〆セリフになった。
これが、うまくはまり、少し流行語のようになり、その後のテレビ朝日の釈由美子さん主演の連続ドラマ「7人の女弁護士」(2006/木曜21時)も、決め台詞が毎回ラスト前に登場。その後の木曜21時ドラマには決め台詞が何故か多くなった気もする。ドラマ自体はスタッフ、キャストがすべてやってくれるので、僕が最も貢献できたのはこのことだろうか。これはテレビ局にいたことの「ウケたい」習性でもあるかもしれない。
1話目の視聴率は11.5%で予想を超える反響があった。全体を通しても9%台をキープし、パート2のオファーがあった。1年後、「PART2」がスタートする。ただ、僕はほとんど関わらなかった。パート1を超える視聴率、平均9.9%を獲った。
『リング』『らせん』の時の心境に近いのかもしれないが、世の中に最初に発信することに興味、好奇心が強いのだろう。PART1が終わって、釈由美子さんから「これは私の代表作です!」と言ってもらった時に、出演してもらった彼女との巡りあわせに感謝するとともに、僕の役目は終わった気がした。映画にもなったが、それは次のクリエイター達に頑張ってほしい気持ちになった。
ただ、高橋ツトムさんの傑作コミック『鉄腕ガール』の映画化など幾つかトライしながら、実現できていないのが残念というか、心苦しいところである。だから未だに、映画製作に拘って生きて行けているのかもしれないが。
かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。