撮影が終わり、編集作業も進み、日活撮影所のオールラッシュ(映像の長さが決まる/本来は音楽無し)の日。スタッフや、宇野社長も参加して、これでOKジャッジを出す時である。僕らプロデューサー陣は、何度もラッシュを見ているので、もうだいたいわかっている。ただ、出資者などの了解をもらう場でもある。クライマックスとも言えるシーンでまさかの「歌」が流れる。小田和正さんの「言葉にできない」が玉山鉄二さんの感動シーンに……。なぜ、唖然としたかと言えば、エンディングに主題歌は決まっており、挿入歌の話は聞いていなかった。小田さんの事務所の了解も当然もらっていない。監督に「してやられた」と感じつつ、まあ出資者を盛り上げるためにたまたま合わせたのだろう……などと思いめぐらしていると、暗い試写室内には泣き声が……最後には号泣する人も。上映後、目頭真っ赤の宇野社長が、当然のように「言葉にできない♪最高だね」となり、GAGAのプロデューサーは小田さんの事務所に走るのである。
スタッフの一部は当然知っているはずだが、僕は知らなかった。公開後、「言葉にできない♪」のシーンでは号泣者が続発した。テレビで「今、泣ける映画特集」として取り上げられ、僕もインタビューを受けた(皮肉にも? フジテレビの報道番組で)。「生野監督の独断で……」とは言えず、「愛してくれと言ってくれ」で感動させてくれ、やはり、あの時もドリカムの「LOVE LOVE LOVE」で泣きましたね……。
GAGAにとってもメジャー展開の製作映画で初のヒット。11月3日の公開の前、10月10日に文春文庫(毎日新聞社は文庫が無い為)から発売されると公開時には100万部を突破。文春では同社の最速でのミリオンセラーにもなった。その秋の直木賞では『容疑者Xの献身』で東野圭吾さんが受賞した。
生野慈朗監督とは、その後、数本の企画を検討し、シナリオ作成など行ったが、映画は実現できなかった。昨年4月6日73歳で永眠された。プロテスタント教会での前夜式(お通夜)に参列したが、牧師の生野さんに纏わる感話とともに、賛美歌を斉唱しながら、涙がこぼれた。「言葉にできない♪」が思わず過った。
かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。