今でもスタジオ入口に『七人の侍』と『ゴジラ』の壁画を掲げる東宝。〝明るく楽しいみんなの東宝〟を標榜し、都会的で洗練されたカラーを持つこの映画会社は、プロデューサー・システムによる映画作りを行っていた。スター・システムを採る他社は多くの人気俳優を抱えていたが、東宝にもそれに劣らぬ、個性豊かな役者たちが揃っていた。これにより東宝は、サラリーマン喜劇、文芸作品から時代劇、アクション、戦争もの、怪獣・特撮もの、青春映画に至る様々なジャンルに対応できたのだ。本連載では新たな視点から、東宝のスクリーンを彩ったスタアたちの魅力に迫る。
社長シリーズもすっかり軌道に乗り、東宝から言いくるめられて(森繁曰く「美味しい話に乗って」)久松静児監督と共に自主製作したのが『地の涯に生きるもの』(60)という映画である。
苦労して一千万円という金をこしらえたわりには「一銭も儲からなかった」作品だが、転んでもただでは起きないのが森繁の真骨頂。ロケでお世話になった羅臼の人たちに感謝を込めて披露した歌「さらばラウスよ」が、のちに「知床旅情」として大ヒットしたのはご存知のとおりだ。
これが59年の後、自宅近くの千歳船橋駅で電車接近メロディとして使われることなど、当の本人にも予測できない未来予想図であったろう。
これは、小津安二郎が宝塚映画で撮った『小早川家の秋』(61)に出演したときの話。
森繁久彌の俳優人生には何度か反抗的態度が見られるが、このとき小津とぶつかったエピソードも実に面白い。小刻みにカットを割り、俳優にアドリブ演技を許さない小津の演出手法に辟易した森繁は、撮影が済むや共演の山茶花究と連れ立ち、小津の宿に殴り込みをかける。
すると小津は「俺の映画に軽演劇の芝居は要らない」として、「同じ芝居を繰り返してみせられない」森繁らを強く非難。「脚本に書かれていること以外、何ひとつ許容しない」という強硬姿勢に出る。
この一件以来、のちのちまで小津に対する反発を隠さなかった森繁。しかし、残された脚本と本編とを見比べてみると、森繁の台詞回しには明らかに脚本と違う箇所がある。
恐らくこんなことができた俳優は、森繁ただ一人! あの小津も認めざるを得なかった軽演劇役者の意地、すなわち〈反抗〉の証拠が『小早川家の秋』には確かに残っているのだ。