1932年、東宝の前身であるP.C.L.(写真化学研究所)が
成城に撮影用の大ステージを建設し、東宝撮影所、砧撮影所などと呼ばれた。
以来、成城の地には映画監督や、スター俳優たちが居を構えるようになり、
昭和の成城の街はさしずめ日本のビバリーヒルズといった様相を呈していた。
街を歩けば、三船敏郎がゴムぞうりで散歩していたり、
自転車に乗った司葉子に遭遇するのも日常のスケッチだった。
成城に住んだキラ星のごとき映画人たちのとっておきのエピソード、
成城のあの場所、この場所で撮影された映画の数々をご紹介しながら
あの輝きにあふれた昭和の銀幕散歩へと出かけるとしましょう。
いよいよ‶世界のミフネ〟篇もクライマックス。まだまだ語り足らないが、今回でひとまず〈終幕〉としたい。
世界のミフネが豪快さと繊細さの両面を兼ね備えた人間であったことは、よく知られた話。ニューフェイス試験での傍若無人な態度(試験官から「笑ってみろ」と求められたのに対し、「そんなに簡単に笑えるものではありません」と応じた)から、すでに粗暴な面が強調されており、前回ご紹介した「黒澤のバカヤロー」事件など、酒にまつわる荒れた行動も有名である。それでも、かつて仕事を共にした三船プロの方々に話を聞けば、‶社長〟ミフネのことを心底慕っている様子がありあり。社長のことを悪く言う者など一人もおらず、その人間性を称賛する声ばかりが聞こえてくる。気遣いの人であったことは、『上意討ち-拝領妻始末-』(67年)で共演した加藤剛さんからも確と伺っている(註1)。
三船敏郎が成城の住民と最も深く関わったのは、何といっても1958年の9月に静岡・関東地方を直撃した狩野川台風のときであろう。その年の夏はやたらと台風が発生、おりしも御殿場で撮影中だった黒澤作品『隠し砦の三悪人』(58年)も、しばしば撮影延期を余儀なくされていた(註2)。このときも、当然ロケは中止となり、三船は愛車MG‐TDで一旦成城の自宅に戻り、久々の家族団欒と晩酌を楽しんでいた。
すると26日の深夜になり、成城学園と東宝撮影所の敷地内を流れる仙川が氾濫(註3)、学園東側の低地帯(註4)にあった小田急住宅20戸が孤立する事態に陥る。三船がモーターボートを所有していることを知る成城警察署は、すぐさまこの大スターに応援を要請。「よし、きた!」と一声、これに応じた三船は酒気帯び運転などものともせず、車で運んだボートを使って、孤立した家々の人たちの救出に当たり、以下の記事のような大成果を挙げる。