1932年、東宝の前身であるP.C.L.(写真化学研究所)が
成城に撮影用の大ステージを建設し、東宝撮影所、砧撮影所などと呼ばれた。
以来、成城の地には映画監督や、スター俳優たちが居を構えるようになり、
昭和の成城の街はさしずめ日本のビバリーヒルズといった様相を呈していた。
街を歩けば、三船敏郎がゴムぞうりで散歩していたり、
自転車に乗った司葉子に遭遇するのも日常のスケッチだった。
成城に住んだキラ星のごとき映画人たちのとっておきのエピソード、
成城のあの場所、この場所で撮影された映画の数々をご紹介しながら
あの輝きにあふれた昭和の銀幕散歩へと出かけるとしましょう。
今や高級住宅地として、全国的にその名を知られる成城。その街の成り立ちは、1925年、一面の林野だった東京府北多摩郡砧村に、牛込原町(現在の新宿区)から成城学園の元となる成城第二中学校と併設の小学校が移転してきたことによる。
二年後の小田急線開通(1927年)を経て、1932年には東宝の前身P.C.L.(写真化学研究所)が「成城学園前」駅の南方にトーキー撮影用の大ステージを建造。これにより学園町であった成城(1930年に学園の名が地名につく)は、文化人のみならず多くの映画監督やスタッフ、煌めくスター俳優たちが住む街となっていく。
昨2020年に、生誕百十年を迎えた黒澤明。この世界的監督も晩年は成城住まいだったが、長くコンビを組んだ三船敏郎(昨年が生誕百年)は、デビュー作『銀嶺の果て』(47年谷口千吉監督)撮影直後から成城で下宿生活を始めた、言わば生粋の〝成城人〟。やがて三船は、自邸ばかりか自らのプロダクションと撮影所もここ成城に置くこととなる。
この二人が作り上げた作品が、海外で高い評価を受けているのはご存知のとおり。中でもひときわ人気が高く、〈映画の教科書〉、〈映画の中の映画〉とまで称されているのが『七人の侍』(54年)である。
戦国時代、野武士の略奪を受ける農村を自己犠牲的精神で守り抜く侍たちの行為を、圧倒的なアクションと抒情性をもって描く本作。スティーヴン・スピルバーグやジョージ・ルーカスに愛されたことはもちろん、英国では最近に至るまで「史上最高の外国語映画」ベストワンの座を保ち続けている。
同じ年に公開され、これまた海外での人気が高い『ゴジラ』とともに今もスタジオ入口に巨大壁画がそびえ立っているのは、東宝が両作品への敬意と謝意を失っていない証であろう。