1932年、東宝の前身であるP.C.L.(写真化学研究所)が
成城に撮影用の大ステージを建設し、東宝撮影所、砧撮影所などと呼ばれた。
以来、成城の地には映画監督や、スター俳優たちが居を構えるようになり、
昭和の成城の街はさしずめ日本のビバリーヒルズといった様相を呈していた。
街を歩けば、三船敏郎がゴムぞうりで散歩していたり、
自転車に乗った司葉子に遭遇するのも日常のスケッチだった。
成城に住んだキラ星のごとき映画人たちのとっておきのエピソード、
成城のあの場所、この場所で撮影された映画の数々をご紹介しながら
あの輝きにあふれた昭和の銀幕散歩へと出かけるとしましょう。
‶世界のミフネ〟こと三船敏郎が、真の意味で、その称号を我が物としたのは2016年の「ハリウッド殿堂入り」のときのこと。世界的俳優としてはいささか遅過ぎの感もあったが、三船はここで純粋な日本人俳優として初めて、ハリウッド大通りの‶ウォーク・オブ・フェーム〟にその名を刻む(註1)。
左の写真は、式典に同席する機会を得た筆者の「特写」。星型プレート脇には『七人の侍』(54年)の菊千代の雄姿が掲げられているが、もし三船が『スター・ウォーズ』のオファー(註2)を受けていたとしたら、ここにはオビ=ワン・ケノービ(もしくはダース・ベイダー)の顔があり、今頃は‶世界〟どころか〝銀河系のミフネ〟と呼ばれていたことだろう。
これが本名である三船敏郎は、1920年、中国山東省青島(チンタオ)の生まれ。秋田出身の父・徳造が写真館を開業して成功するも、国際情勢により三船が5歳の時に一家は大連(だいれん)へ移住。ここでの店名が「スター写真館」だったことは、誠に運命的な偶然と言わざるを得ない。
20歳で徴兵された三船は、陸軍航空教育隊に配属。家業での経験を買われて、航空写真の任務を担ったことが自らの運命を大きく変える。足かけ7年に亘る軍隊生活を、前線にも特攻隊にも送られることなく上等兵として終えた三船は、復員後、先輩兵のカメラマン・大山年治を頼って東宝に履歴書を送る。これも、戦地で鍛えた〈撮影技術〉を生かす仕事に就くためであった。
ところが、復員者が増えた撮影部に欠員はなく、その履歴書は第1回目の俳優募集「東宝ニューフェイス」へと回されていく。半ば自棄気味でこの試験を受けてみると、結果は意外にも〝補欠〟合格(註3)。仕方なく成城の俳優養成学校に通うこととなった三船は、初監督作の主演男優を探していた谷口千吉に、小田急線内で見出されるという幸運(本人にとっては不運?)に恵まれる。