1932年、東宝の前身であるP.C.L.(写真化学研究所)が
成城に撮影用の大ステージを建設し、東宝撮影所、砧撮影所などと呼ばれた。
以来、成城の地には映画監督や、スター俳優たちが居を構えるようになり、
昭和の成城の街はさしずめ日本のビバリーヒルズといった様相を呈していた。
街を歩けば、三船敏郎がゴムぞうりで散歩していたり、
自転車に乗った司葉子に遭遇するのも日常のスケッチだった。
成城に住んだキラ星のごとき映画人たちのとっておきのエピソード、
成城のあの場所、この場所で撮影された映画の数々をご紹介しながら
あの輝きにあふれた昭和の銀幕散歩へと出かけるとしましょう。
今回はテーマを変えて、再び『七人の侍』(54年:黒澤明監督)について語らせていただきたい。
三船敏郎ハリウッド殿堂入り式典に際し、掲げられたのは菊千代の雄姿。米国におけるミフネの代表作が『七人の侍』であることは明らかで、これほど世界で愛され、認められた日本映画は他にない。
昨年上梓した拙著『七人の侍 ロケ地の謎を探る』(アルファベータブックス)では、スチールに写り込む山の稜線や当時の航空写真、さらには関係者の証言を手がかりに、決戦の場となった村の撮影地をほぼ特定することに成功。大まかに言えば、〈村の東=水車小屋〉が静岡の堀切、野武士が襲来する斜面と全景が下丹那、防柵を築いた〈村の西〉が御殿場東田中、村の中心部が世田谷大蔵の田圃(オープン)で撮られたことが判った。
それでも唯一、完全特定できなかったのが、勘兵衛(志村喬)が「野武士の騎馬を一騎ずつ通して、村の辻で挟み撃ちにする」戦術を立てた〈村の北=水神の森〉のロケ地。多くの書物で、「御殿場二岡(にのおか)神社の境内」と指摘される本撮影地点は、実際に現地を訪れた筆者も、当初はここがロケ地と確信したほど風景が酷似している(写真①参照)。
しかしながら、陽の差し方=方角が合致しないことで、結果として当地は〈村の北〉の攻防戦を撮った地点ではあり得ないことが判明。スチールに写る周囲の状況や関係者の証言などから、当ロケ地は、成城の東宝撮影所に隣接する大蔵地区に作られた「村のオープンセット」近辺(写真②)と推定されるに至る。
ただ、当地大蔵は世田谷通りバイパス道の敷設や団地建設により、今やその風景は激変。目印となる山の稜線なども存在しないため、〈村の北〉のロケ地だけは完全解明を成し得ぬまま、出版日を迎えたのだった。
今や、本作の撮影スタッフでご存命の方は極めて少ない。セカンド美術助手(当時)の竹中和雄氏からは、ご自身の体調もあって、手紙のやり取りにて様々な示唆をいただいたところだが、当ロケ現場に関する具体的な指摘はなかった。すると出版後になって、拙著を読まれた竹中氏から、直接会ってお話をしたいとの連絡が入る。竹中さんは、何か思い出されたのではないか?
期待に胸膨らませて出向くと、竹中さんはいともあっさり「〈村の北〉は、村のオープン(旧大蔵団地15号棟付近)の南側、水神(大蔵には、実際に水神の祠がある)に至るまでの、山の斜面を利用して撮りました」と明言。その正確な撮影場所をご指示くださった。
写真③のとおり、当地には斜面を除いて、杉の木など一本も生えていないのだが、竹中さんによれば、画面に写る杉の木のほとんどは、「美術スタッフが造った杉の大木を、二の岡から移して設えた‶つくり物〟」(註1)なのだという。
これでは、ロケ地を自力で特定することなど到底不可能! 道理でこれまで、誰もこの撮影現場を指摘できなかったわけである。いずれにしても、これで積年の謎は完全解明。久蔵(宮口精二)らが野武士の騎馬を待ち受け、五郎兵衛(稲葉義男)が種子島=火縄銃により落命した杉林の撮影地は、ここ世田谷区大蔵(写真④)だったのだ。
続いてお会いできたのが、元御殿場市長で、当二岡神社で第38代当主を務める内海重忠さん。取材は、御殿場市役所と連携する「御殿場フィルムネットワーク」の勝間田太郎さんの仲介により実現したものである。
「撮影現場を見た話は、これまで誰にもしたことがない」と語る内海さんは、撮影当時、小学三年生。強く印象に残っているのは、〈学校から帰ると、社殿横の広場に馬の大群が集っていてビックリした〉ことと、〈騎馬が参道の脇の坂道(女坂と呼ばれる)を駆け下りていくシーンを撮っていた〉こと(写真⑤&⑥参照)。先代当主の父親からは、〈木村功の若侍が梅の枝を折るのを見て、志村喬が「やっぱり子供だ」と言って笑うシーンも神社内で撮っていた〉と聞いたそうだ。やはりつくり物だった梅の木は、撮影が終わっても撤去されずに、そのまま残っていたという(写真⑦参照)。
相当な数に及ぶスタッフの一人が鳥居の脇で山芋を掘り当て、大喜びしていたことから、内海さんは、「撮影時期は秋だったのではないか」と推測。〈村の西〉のロケ現場(東田中城山地区)でも、霜柱が立っていたとの証言を得ているので、御殿場ロケが秋から冬場に行われたことは間違いない(註2)。
ここまで細かく証言されると、当二岡神社(註3)でこれらのシーンの一部が撮影されていたことは確実。水神の森を勘兵衛らが検分するシーンも、大蔵ではなく、ここ二の岡で撮影されていたのだ! 馬が集っているとき侍の俳優はいなかったというから、当地で撮影されたのは、大蔵では撮ることができなかった、水神の森を疾走する野武士の騎馬を側面から捉えたショットだったのだろう(註4)。
こうして、続々と明らかになる『七人の侍』の撮影地。次は、いったいどこへと向かおうか?
(註1)久蔵が仮眠をとる石垣はもちろん、驚いたことに、村の広場に入る坂道も‶二重〟を組んで設えた‶つくり物〟だという。竹中さんは馬が通る度、いつ壊れるかと冷や冷やして見ていたそうだ。
(註2)記録に残る、御殿場二の岡地区での撮影期間は11月21日から30日にかけて。
(註3)当神社内で撮影された映画には、他に北野武版『座頭市』(03年)や森田芳光版『椿三十郎』(07年)、静岡出身の原田眞人監督による『関ケ原』(17年)などがある。
(註4)御殿場では、二岡神社の西方「東田中(城山)」地区でも、防柵を設けた〈村の西〉の攻防シーンが撮られているので、神社内での撮影にはそれほど時間をかけられなかったものと推察される。
たかだ まさひこ
1955年1月、山形市生まれ。生家が東宝映画封切館「山形宝塚劇場」の株主だったことから、幼少時より東宝作品に親しむ。黒澤映画、クレージー映画、特撮作品には特に熱中。三船敏郎と植木等、ゴジラが三大アイドルとなる。大学は東宝撮影所にも程近い成城大を選択。卒業後は成城学園に勤務しながら、東宝を中心とした日本映画研究を続ける。現在は、成城近辺の「ロケ地巡りツアー」講師や映画講座、映画文筆を中心に活動。著書に『成城映画散歩』(白桃書房)、『三船敏郎、この10本』(同)、『七人の侍 ロケ地の謎を探る』(アルファベータブックス)がある。近著として、植木等の偉業を称える『今だから! 植木等』を準備中。