そもそもこの‶病院坂〟なる坂道、小説では都心の麻布と芝の境目にある設定だった(事件の管轄は高輪署)が、実のところこのネーミングは、横溝邸からも程近い、ある坂道の通称に由来しているのだ(註5)。かつての「御料林」(皇室財産の森林)西方に位置する当坂道は、明正小学校と砧中学校に挟まれた切り通し。鬱蒼とした森に囲まれ、防空壕跡などもある、いかにも妖しい雰囲気を醸す地だ。ただ、筆者の知る限り、当地に病院があった痕跡はない。そこで、古くからの住人に尋ねれば、ここにはかつて伝染病(結核)の隔離病棟があったという(註6)。もともと空気が綺麗な土地であるから、こうした施設が作られても不思議ではないが、いまやそれを証明する資料は残っていない。
国分寺崖線(野川段丘)上に位置する当坂道は、かなりの傾斜地であるので、晩年の横溝には散歩は難しかったに違いない。それでも、生涯結核と闘った、自身の病歴を重ね合わせたものか、横溝はこのネーミングを記念すべき‶金田一耕助最後の事件〟に、意識的に採り入れている(註7)。
実は、‶金田一もの〟には『支那扇の女』や『洞の中の女』など、成城や経堂を舞台とした作品もいくつか存在する。今、横溝の散歩姿を振り返れば、金田一が成城のまちを闊歩する姿は、まさに横溝正史そのものであったように思えてならない。
横溝正史は1981年に死去するまで、成城に居住。横溝が求めた開放的な空間=成城が、戦後の金田一耕助シリーズ=横溝の執筆活動を陰から支えていたことは間違いない。見晴らしの良いその書斎は山梨市に移され、「横溝正史記念館」として公開されている。
(註1)名前はもちろん金田一京助から、そして、その風貌は岩田専太郎が描いた挿絵(『花咲く樹』)からインスピレーションを得たとのことだが、具体的イメージは『本陣殺人事件』文中にある「昔、レビューの楽屋なんかにゴロゴロしてたような男」すなわち菊田一夫なのだそうだ(角川書店刊『横溝正史読本』「自作を語る」より)。
(註2)植村泰一(やすかず)氏は、近所の作曲家・清瀬保二に師事、東京芸術大学別科、慶應義塾大学を卒業後、NHK交響楽団に入団。東京芸大の学長・理事長も務める。『悪魔が来りて笛を吹く』が東映で映画化されたとき(79年:斎藤光正監督)に、テーマ曲を吹いたのも泰一氏であった。
(註3)トリックはある誤解から齟齬が生じ、単行本化の際に訂正されたという。
(註4)具体的なロケ地については、拙著『成城映画散歩』(白桃書房)を参照されたい。映画には『犬神家の一族』(76年)同様、横溝先生自身が特別出演。これも近所住まい(自宅から東宝撮影所までは歩いて数分)の成せる技?
(註5)横溝は、本書の序文で「成城にも同じ名の坂道がある」と明かしている。
(註6)複数の証言をもとにすれば、この建物(病院ではないが)は、昭和初期まで残っていたものと思われる。
(註7)本作、元々のタイトル(「宝石」に載せた短編:前篇のみで終わる)は『病院横町の首縊りの家』であった。
高田 雅彦(たかだ まさひこ)
1955年1月、山形市生まれ。生家が東宝映画封切館の株主だったことから、幼少時より東宝作品に親しむ。黒澤映画、クレージー映画、特撮作品には特に熱中。三船敏郎と植木等、ゴジラが三大アイドルとなる。東宝撮影所が近いという理由で選んだ成城大卒業後は、成城学園に勤務。ライフワークとして、東宝を中心とした日本映画研究を続ける。現在は、成城近辺の「ロケ地巡りツアー」講師や映画講座、映画文筆を中心に活動、クレージー・ソングの再現に注力するバンドマンでもある。著書に『成城映画散歩』(白桃書房)、『三船敏郎、この10本』(同)、『七人の侍 ロケ地の謎を探る』(アルファベータブックス)、近著として『今だから! 植木等』(同2022年1月刊)がある。