映画は死なず 実録的東映残俠伝
―五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀 1972~2021―
文=多田 憲之(東映株式会社 代表取締役会長)
ただ のりゆき
1949年北海道生まれ。72年中央大学法学部卒業、同年4月東映株式会社入社、北海道支社に赴任。97年北海道支社長就任。28年間の北海道勤務を経て、2000年に岡田裕介氏に乞われて東京勤務、映画宣伝部長として着任。14年には5代目として代表取締役社長に就任し20年の退任と同時に取締役相談役就任。21年6月、現職の代表取締役会長に就く。
企画協力&写真・画像提供:東映株式会社
2020年11月18日、東映株式会社代表取締役グループ会長・岡田裕介が死んだ。当日は、午前中出社し、午後、自宅で吉永小百合さん主演の『いのちの停車場』の打ち合わせの最中に倒れた。まさに急逝であり、誰もがこの突然の訃報をにわかに信じることができなかった。役者が舞台の上で死ぬ、そんな印象の死だった。2021年3月10日に「お別れの会」が催されたが、新型コロナウイルス感染拡大防止対策により、日本映画界に多大な貢献をした映画人を見送るにはいささか寂しいお別れだった。それでも、映画の灯を消さないよう、さらなる映画界の発展のために、岡田会長同様、映画を愛し、闘ってきた同志である多くの映画人たちが岡田裕介との早すぎる別れを惜しみ、哀悼の辞を寄せた。本来ならば、岡田会長の遺影を前に、映画人たちがにぎやかな映画話に花を咲かせながら、見送ったはずだ。東映入社以来28年間ずっと北海道勤務だった私を東京に呼び寄せたのは岡田裕介だった。いままで人生を振り返ることなどなかったが、東映に入社してからのことが次々に思い出された。
私が東映に入社したのは1972年だから、来年で半世紀を東映と過ごしたことになる。実は某大手精密機械会社から内定が出ていたが、気持が定まらず、まだ就職が決まっていない友人に付き添い就職部に求人票を見に行った。掲示板に貼られた当時はガリ版刷りの求人票の中で、ひと際目立つ唯一カラー印刷の貼り紙に目を奪われた。東映の求人票だった。そこには劇映画日本一、テレビ映画日本一、教育映画日本一などなど、多くの日本一を謳うコピーが記されていた。映画会社に入りたいと思ったことなど一度もなかったのに、東映という会社に興味が湧いた。当時の学生にとっては、映画会社というのは異次元であり、別世界だった。映画を観るのは好きだが、映画会社で映画の仕事に携わるなんて、想像すらしたことがなかった。もしかすると、大好きな〝緋牡丹お竜〟こと藤純子(現在の富司純子さん)に会えるかもしれない、高倉健に会えるかもしれない、そんなミーハー心が疼いた程度の理由で、入社試験を受けたのだった。確たる目的や志があったわけでもなかった私が、よく受かったものだと思う。
映画少年、映画青年というような熱心な映画ファンではなかったが、映画しか娯楽がなかったから子供の頃から映画をよく観ていた。人生初めての映画は、4歳の時に祖父母と一緒に観た市川右太衛門主演の『旗本退屈男』だったことをかすかに憶えている。当時は仕事を終え晩飯の後の楽しみといえば映画くらいのものだった。実家は呉服屋を商っていたが、両親も店を閉め晩飯を済ませると、夫婦連れだって映画を観に行くのが唯一の楽しみだった。私は末っ子で必ず両親について行く。そのたびに帰れと𠮟られる。
やっと夫婦2人だけの時間を持てるのに、私が映画を観ながら「なんで、どうして」などとうるさく質問を浴びせるものだから、落ち着いて映画も観られない、とぼやいていた。夫婦の時間に水を差す迷惑なおじゃま虫だったようだ。初めて父親と一緒に観た映画は、満蒙の原野に跳梁する馬賊の反逆児の半生を描いた檀一雄の小説の映画化『夕日と拳銃』で、7歳のときだった。時代劇俳優の東千代之介の現代劇初出演作で、高倉健も出演していた。子供の頃から東映映画に馴染んでいたわけだ。