1950年代の東映は、中村錦之助(後の萬屋錦之介)、東千代之介主演の『新諸国物語 笛吹童子』などの子供向けの連続活劇シリーズ、右太衛門、片岡千恵蔵、大友柳太郎、大川橋蔵、錦之助主演の大人の時代劇で、時代劇王国の地位を確立し、日本初の長編カラーアニメ映画『白蛇伝』で、日本アニメ映画の基礎を築き、57年の『鳳城の花嫁』では東映シネマスコープを導入し、ワイドスクリーン時代を日本映画に招聘するなど、急速な発展を見せ、邦画界を牽引し、独走態勢に入るほどの勢いだった。東映全盛時代と言えるだろう。東映以外で観ていたのは東宝の『ゴジラ』くらいだった。
中学生になると、姉の影響で『ウエスト・サイド物語』や、スタンリー・キューブリック監督の『スパルタカス』など、中学生になると字幕が読めるようになったこともあって洋画が多くなった。アメリカ映画ってすごいなと思い、すっかり洋画にハマった。背伸びして通を気取り難解そうな作品も観たものだ。邦画だと黒澤明監督の『用心棒』や『椿三十郎』に夢中になった。東映の舞うような殺陣とは違う豪快な殺陣に魅せられ東映から離れてしまった。加山雄三の『若大将シリーズ』も好きでよく観た。再び東映映画を観るようになったのは高校生になってからで、鶴田浩二や高倉健主演の任俠映画だった。大学時代も仕送りが届くと兄と一緒に映画館に通った。
私が入社した年の大卒の新入社員は8人で、高卒が16人だった。東映で何がやりたいということはなく、ただ、赴任地が北海道支社であればよかった。どんな仕事をするのかもわからなかった。私たちの若い頃は、会社で何をやるのかは、会社が決めるものだと思っていた。東映人生も半世紀になるが、製作をやりたいとか、企画をやりたいとか、思ったことは実は一度もない。私にとっては今も、映画は作るより観るものである。北海道勤務を望んだのは、出身地だということもあるが母が病気で自宅療養中だった。札幌に好きな女の子が住んでいたこともある。北海道支社勤務ということだけで満足だった。1960年代に入ると、テレビの普及などにより映画界も斜陽化という時代が訪れる。61年には新東宝が製作を停止し、日活は69年には撮影所を売却し、71年にロマンポルノの製作に入った。71年には大映も大型倒産による終焉を迎えた。私はそんな時代に映画界へ入ることになった。東映はと言えば、映画不況が始まった頃から製作され、鶴田浩二、高倉健、藤純子などをスターダムに押し上げた『博徒』『日本俠客伝』『網走番外地』『昭和残俠伝』『緋牡丹博徒』などで一大ムーブメントを巻き起こした任俠映画が終焉のときを迎えようとしていた。72年の藤純子引退記念映画『関東緋桜一家』が任俠映画最後の輝きを放った。憧れの藤純子もこの作品を最後に引退し3月に東映を去り、入れ違いで私は4月に入社した。もちろん、会えるかもしれないという私のミーハー心はあえなく玉砕した。
映画界斜陽の時代に東映はいかなる舵取りをするのか。つづきは次回で。