札幌シネマフロンティアのオープンの前年2002年に、岡田裕介は東映4代目社長に就任した。私は、2000年に岡田に誘われて東京に呼ばれ、映画宣伝部長として着任し、2008年に秘書部長となるまで、北海道支社長と兼任していた。
JRの坂本氏と、2003年まで北海道知事を務めた堀氏が、それぞれ音頭をとり<映画『北の零年』を成功させる会>というものを発足させた。坂本氏は北海道大学工学部出身、堀氏は北大農学部林産学部出身。お二方とも北大の出身である。さらに、なみいる建設会社のトップクラスが、そろいもそろって北大の土木出身者だった。そのネットワークで、前売券が大いに売れることになった。まさに選挙運動みたいだった。選挙のように手かせ足かせがない分、前売券をさばくのは選挙より面白いという光景を目の当たりにした。北海道大学の土木出身者の人脈の底力というものを、まざまざと見せつけられた思いだった。
撮影所のプロデューサーとして仕事をしてきた岡田裕介は映画興行に関しては、ある意味素人である。私などは、その意味では、配給のプロフェショナルである。日本におけるシネコンのビジネスモデルというのは、93年に日本初のマルチプレックスシネマを開業したワーナー・マイカルだった。つまり、ショッピングモールに、映画館を作り人を呼び込み、存分なスペースの駐車場があって、車で来て、買い物がてらに映画を観るというのがビジネスモデルだった。だが、駅ビルにシネコンを作るというのは初めてで、少々事情が違った。駅ビルだからJRとしてはJRを利用してシネコンに来てほしい。といっても、私のような仕事をしてきた人間には、駐車場がどの程度キャパがあるのかという考えに凝り固まっているわけで、JRの駅ビルに駐車場は何台あるのかが気になってしまう。ショッピングモールの駐車場規模に比べると、ないに等しい数である。私が「駐車場がないのがなぁ」と思わず呟いたとき、岡田が「何で駐車場がいるんだ」と言う。「違うよ多田、ショッピングモールには、人集めに映画館があるんだろ。でもさ、考えてみたら、人が集まるところに映画館を作ったほうがいいじゃないか」と。これは、いまだに社員をはじめ、みんなに話していることなのだが、発想の転換というのか、まさに目から鱗で、ショッピングモール、映画館、駐車場という考えにとらわれ過ぎていて、この発想ができなかった。ある意味、素人の岡田だからできた発想だった。「人が集まるところに映画館を作ればいい」、これは至極名言で、札幌シネマフロンティアは、間違いなく岡田裕介の功績である。それ以来、駅ビルにシネコンは当たり前になった。
東映はシネコンを含めて興行に関しては後発で、岡田は目立たなければいけないという性格だし、目新しさとして差別化するために、ティ・ジョイにデジタル化を取り入れた。なおかつ〝映画館もある公民館〟にしたいとも話していた。映画もやるけどイベントもいろいろとできる多目的シネコンのようなイメージだった。そこから、さらにODSという発想が生まれる。コンサートを配信するというように、演劇や音楽など、映画ではない作品を最新のデジタル上映設備で楽しむ、たとえば、ティ・ジョイの新宿バルト9のような上映形態を生み出した。アイデアマンだった。
キネマ旬報の編集長を務めた黒井和夫氏が、後に角川映画の社長になったときに、岡田裕介に「役者三流、プロデューサー二流、経営者としては一流だな」と言った。その件に関しては黙して語らずだが、確かに売り上げの倍くらいあった借金を、無借金経営近くにまで改善したという社長としての岡田の経営手腕は見事であったと言えよう。宣伝部長として頻繁に社長室に出入りしていて、岡田裕介の仕事を身近に見ることができた。
吉永小百合はその後もずいぶん多くの東映作品に出演するが、そのすべては岡田裕介のプロデュースだった。『長崎ぶらぶら節』『千年の恋 ひかる源氏物語』『まぼろしの邪馬台国』『北のカナリアたち』『ふしぎな岬の物語』『北の桜守』そして『いのちの停車場』。吉永小百合という大スターとわたりあい、数々の映画を世に送り出したのも、互いの信頼関係あってのことだろう。吉永小百合も岡田裕介プロデュースにより、さまざまに色彩の異なる役柄を演じる機会を得られたのではないだろうか。東映映画では、自由に女優業を楽しんでいたのではないかと勝手に推察している。
今、改めて思うに、岡田裕介はやはり映画界を引っ張っていた人だと思う。東映においても、カリスマ的存在だった。声も大きいし、態度もでかく、人をぐいぐい引き込んでいく。その人脈もすごかった。岡田裕介の不在は、日本映画界にとって、大きな損失だと実感している。
次回は、東京本社に異動になってからの話をさせていただこう。