引退していた小林麻美が忽然と、ファッション誌の表紙を飾った。「Ku:nel クウネル」の2016年9月号だった。書店に並んだ雑誌を手に取って何年ぶりだろうと、しみじみ眺めた。表紙の小林は黒のタキシードを着て、足を軽く組み、右手を頬にあて左手は腰、笑みを含んだ穏やかな表情は、パリジェンヌのような洗練されたオーラを放っていた。復帰から約8年、コラムの連載やグラビアで小林を目にする機会も増えたが、彼女のお気にいりのアイテムが紹介されていると、つい目がいってしまう。
小林麻美といえば、思い出すのは化粧品会社とのタイアップCMだ。尾崎亜美の「マイ・ピュア・レディ」(77)が流れるなか、パーカーにショートパンツ、双眼鏡をもって海で遊ぶ姿は妖精のようだった。翌年、南こうせつの「夢一夜」をバックに妖艶な和服姿でこちらを見つめる小林は、美人画の絵の中からそのまま出てきたようだった。私の記憶の中ではCMの中の小林麻美が鮮明だが、もうひとつこの季節になると聴きたくなるのが、彼女の歌った「雨音はショパンの調べ」(84)である。初めて耳にしたのはラジオからだったが、イントロと間奏のピアノのメロディーが印象的で、聞き取りにくいが甘く囁くような小林の歌声が魅力的だった。雨の降る休みの日などは、この曲やショパンの「ノクターン」を聴きながら窓の外をみていると満ち足りた気分になったものだ。
当時モデルの小林が歌手としてデビューしたのかと思ったが、それ以前にレコードを何曲もリリースしていた。歌手デビューは72年8月5日、作詞・橋本淳、作曲&編曲・筒美京平による「初恋のメロディー」だ。東洋紡のタイアップがつき、毛糸購入者へのプレゼントとして東洋紡が買い上げたこともあって、45万枚の売上げがあった。その後もヒットメーカー筒美京平による「落葉のメロディー」(72)、「恋のレッスン」(73)、「ある事情」(74)、「アパートの鍵」(75)、「私のかなしみ」(75)と年に1曲くらいのペースでリリースが続いたがまったくヒットには恵まれなかった。
小林が歌手デビューした72年は、西城秀樹、郷ひろみ、麻丘めぐみらのアイドルが相次いでデビューし、天地真理、南沙織、小柳ルミ子は「新三人娘」と言われ、歌番組華やかなりし頃だったが、小林の存在はアイドル歌手とは対極の存在であったようだ。
こう簡単に書いてしまうのは忍びないが、15歳のとき有楽町の映画館で大手プロダクションからスカウトされ、16歳でCMデビュー、18歳で歌手デビューした小林は、目まぐるしく変わる世界と自身の心の乖離で疲れ果てていた。元気溌溂なアイドルにはなれなかった。居場所をもとめ小林はロサンゼルスに旅立ったが、事務所を辞めた小林は批判され、死亡説まで出た。そんな中、知人から連絡が入り帰国することになった小林が紹介されたのが、後に夫となる田辺エージェンシーの田邊昭知だった。小林麻美20歳のときである。田邊は背が高いというコンプレックスを克服させるため岩崎アキ子のモデル事務所に送った。岩崎は小林を雑誌「装苑」に登場させ、それがアートディレクターの石岡瑛子の目に留まり、PARCOのCMへ起用が決まる。その後資生堂のキャンペーンCMへと繋がり、顔と名前が知られる存在になっていった。80年には、人気絶頂の松田優作に指名され、大藪晴彦原作、村川透監督の映画『野獣死すべし』に出演、翌年は遠藤周作の小説『闇のよぶ声』を映画化した野村芳太郎監督の『真夜中の招待状』の主演を務めるなど、女優としての活動が主になり、歌手活動は、76年の「夢のあとさき」(作詞・なかにし礼、作曲・田山雅充、編曲・林哲司)から自然消滅していた。
ところが、8年ぶり「雨音はショパンの調べ」を84年4月にレコード会社もそれまでの東芝レコードから、CBS・ソニーに変えてリリースすることになったのである。
「雨音はショパンの調べ」の原曲は、レバノン・ベイルート生まれのイタリアの男性シンガー、ガゼボの「I like Chopin アイ ライク ショパン」である。83年にリリースされ、世界的なヒットをみた楽曲である。各国でのチャートは、イタリア、ドイツ、スイス、オーストリアで1位、ベルギー3位、オランダ7位、日本でも84年には13週間連続、洋楽シングルチャート1位を記録しているものだ。この曲を、松任谷由実ことユーミンが、たまたまロンドンで耳にした。「この曲を麻美ちゃんに歌わせたい」と閃いたというのだ。