ユーミンと小林は、旧知の仲だった。二人は東京の裕福な家庭で生まれ育ち、同学年で10代の頃からミッションスクールに通い、横浜、横田の米軍キャンプに出入りをしていた。洋楽に親しみ、六本木の〈キャンティ〉にもいつの間にか通う大人びた少女だった。そんな二人は気があう親しい友人関係にあったのだ。小林は、何でも仕切るユーミンのことを「頭(かしら)」と呼んだ。ムッシュ(かまやつひろし)なども加わり、三人は一緒によく遊んだ。ムッシュは二人を茶色いボロボロのミニクーパーに乗せ、猛スピードで走った。ムッシュは、ユーミンのデビュー曲「返事はいらない」をプロデュース。ユーミンが、車好きなムッシュのために書いたのが、「中央フリーウェイ」だった。
話は反れたが、ユーミンは直感で、小林に「歌ってみない?」と持ち掛けた。当初この曲には、「ショパンは弾かないで」というタイトルがついていたが、小林が歌うのだったらもっと柔らかくしようと、「雨音はショパンの調べ」に替えた。さらにレコーディングでは声量がある方ではない小林にウイスパーに(囁くように)歌ってと、ガラス越しからアドバイスしながら、歌詞も変えていったという。小林もだんだん情景が浮かぶようになり、二人の共同作業で、「雨音はショパンの調べ」が出来上がっていった。この曲を聴いた松任谷正隆は、「鳥肌が立った、とにかく空気感が素晴らしかった」と評価したという。大ヒットは周知のとおりである。しかし、NHKがあるフレーズを問題視したことや、事務所がテレビ出演は女優としての仕事としたことで、歌番組で歌うことは一切なかった。出演しない戦略も見事に当たった。
人前で歌ったことはたったの3回だという。最初は、86年、苗場のユーミンのライブ「SURF & SNOW」でギタリストの高中正義と一緒にスペシャルゲストとして紹介され、ステージに立った。次は88年の最初で最後の日本武道館コンサート。そして息子の卒業の謝恩会で、ママ友にせがまれカラオケで歌った。気がつけばリリースから40年も経っているが、今でも忘れられない曲だということは、メロディーが秀逸で、曲の持つ雰囲気や当時の小林の魅力が絶大だったからだろう。それにしてもこの曲を「麻美ちゃんに歌わせてみたい」という一瞬の閃きはさすが稀代の天才アーティスト・ユーミンだ。
最後に、「雨音はショパンの調べ」のジャケットのイラストは、合田佐和子によるものだ。合田は唐十郎や寺山修司主宰の劇団の宣伝・美術にも参加した。不思議な世界へ誘うような作品が魅力で、ジャケットを部屋に飾っておきたくなるようなイラストだ。そして、B面は、ジェーン・バーキンが75年に発表した「Lolita Go Home ロリータ・ゴー・ホーム」を小林自身が日本語でカヴァーしたものだったことを記しておこう。武道館コンサートのあと、自分へのご褒美にジェーン・バーキンに会いに行ったという小林。「雨音はショパンの調べ」で見せた、小林の大人の魅力は和製ジェーン・バーキンと称されたという。
参考文献:『小林麻美 第二幕』延江浩著
文=黒澤百々子 イラスト=山﨑杉夫