詞を読み返してみて、失意から再起しようとする男の詩(うた)だったことに改めて頷いた。
自らに言い聞かせるように、裏切りの言葉に背を向けて故郷を離れ、わずかな望みを求めてさすらう俺。たとえ裏切りの街でも、俺は心に灯をともしてくれるわずかな愛を求めて、交わす言葉もないこの都会で生きてゆくのが運命(さだめ)なのか…と。再起を誓う男が人生に逡巡する歌だったのである。
この楽曲を初めて耳にした頃、いきなり3段階高いオクターブで、あ~~あ~~と高らかに歌い出し、夢を追って大空をかけめぐるというスケール感から、男の挫折感など忘れさせたのかも知れない。出だしの高音域は、強いウェーブのパーマネント・ヘアが肩まで垂れていたいかにもロッカーっぽい田中昌之。その高音を受けて次のパートに移ると、低音ヴォーカルながら力強い押しの歌唱力で迫ってくるのは、パンチパーマに黒いサングラスでまかり間違えばその筋のお兄さんのような、ムッシュ吉崎(本名:吉崎勝正)。クリスタルキングは、この組み合わせによるツインヴォーカルが特徴で、特にハイトーンの美声と低音ヴォーカルの奇跡のような唯一無二のハーモニーだった。ともに競い合うように息継ぎもなく反響しあう圧倒的な歌唱力が魅力のバンドだった。作曲はギター担当の山下三智夫、作詞は田中昌之が中心となって書かれ、編曲は船山基紀という布陣。
1979年(昭和54)11月21日にリリースされた7人組のロックバンド、クリスタルキングの「大都会」は1980年にかけて大ヒットし、累計150万枚のミリオンセラーを記録。勢いは次のシングル「蜃気楼」をリリースしても資生堂のキャンペーンソングにもなって大ヒットを連発し、TBSの歌謡番組「ザ・ベストテン」では2曲連続1位を獲得した。年末の第31回NHK紅白歌合戦に「大都会」を歌唱して初出場を果たし、同じく初出場の八神純子の「パープルタウン」と競った。
因みにこの年の紅白では、松田聖子が「青い珊瑚礁」、田原俊彦「哀愁でいと」、岩崎良美「あなた色のマノン」、五輪真弓「恋人よ」、ロス・インディオス&シルヴィア「別れても好きな人」、もんた&ブラザーズ「ダンシング・オールナイト」らが初出場している。バラエティ豊かな楽曲と新しいスターによって、日本の歌謡ステージが、ひとしきりフォークソングやGSブームを経て、1980年代のアイドル歌手の相次ぐ登場と和製ポップス&ロックの時代に踏み出そうとしていた矢先だった。
しかしクリスタルキングが1971年(昭和46)に結成され、大ヒットを勝ち取るまでを振り返れば、苦節9年余り。ムッシュ吉崎が中心となって九州の佐世保で産声を上げてしばらく、米軍キャンプのクラブやアメリカ兵が集まるディスコが仕事場だったという。田中昌之が参加したり脱退したりメンバーの離合集散もあったが、やがて奇跡のツインヴォーカルが功を奏して九州地方で徐々に人気なっていった。1976年(昭和51)カヴァー曲だが、「カモン!ハッスル・ベイビー」でテイチクからレコードデビュー。1978年ヤマハのポピュラーコンテスト(ポプコン)に参加して入賞はするが、円広志の「夢想花」に一敗地にまみれグランプリを逃す。「大都会」はこの苦杯がなかったら、生まれていなかったかも知れないというエピソードがある。「夢想花」のサビのインパクトが審査委員を驚かせて負けただけだ、「それなら俺(田中)の高音でいきなりイントロを決めれば審査委員は丸を付けるだろう」と曲作りに取り掛かったという。
この挿話にはボクも驚かされたが、そうして出来上がった「大都会」は、1979年10月ヤマハのつま恋で開催された第18回ポプコンでグランプリを獲得。続く「世界歌謡祭」でもグランプリと優秀歌唱賞をダブル受賞した。間髪入れず1979年11月21日にはキャニオン・レコードから再デビューを果たすことになった。
ドーナツ盤ジャケットには、「第10回世界歌謡祭グランプリ受賞曲」としっかり印刷されている。因みに、「大都会」をリリースした時点の7人編成は、リーダーのムッシュ吉崎(ヴォーカル低音、パーカッション)、田中昌之(ヴォーカル高音)、山下三智夫(ギター、作曲、ヴォーカル)、中村公晴(ピアノ)、今給黎博美(キーボード、作曲)、野元英俊(ベース)、金福健(ドラム)。あえて名を挙げたのは、メンバーの交代がその後著しく、初代として敬意を表したいと思うからだ。