アナログレコードの1分間45回転で、中央の円孔が大きいシングルレコード盤をドーナツ盤と呼んでいた。
昭和の歌謡界では、およそ3か月に1枚の頻度で、人気歌手たちは新曲をリリースしていて、新譜の発売日には、学校帰りなどに必ず近所のレコード店に立ち寄っていた。
お目当ての歌手の名前が記されたインデックスから、一枚ずつレコードをめくっていくのが好きだった。ジャケットを見るのも楽しかった。
1980年代に入り、コンパクトディスク(CD)の開発・普及により、アナログレコードは衰退するが、それでもオリジナル曲への愛着もあり、アナログレコードの愛好者は存在し続けた。
近年、レコード復活の兆しがあり、2021年にはアナログレコード専門店が新規に出店されるなど、レコード人気が再燃している気配がある。
ふと口ずさむ歌は、レコードで聴いていた昔のメロディだ。
ジャケット写真を思い出しながら、「コモレバ・コンピレーション・アルバム」の趣で、懐かしい曲の数々を毎週木曜に1曲ずつご紹介する。
ちょうど一年前の2021年8月14日、ジェリー藤尾は逝った。享年81。
テレビ放送がまだ白黒だった時代、NHKの人気バラエティ番組だった「夢であいましょう」を眠気に襲われながら観ていた。ぼくは小学生、ませていた。坂本九が歌って大ヒットしていた「上を向いて歩こう」を聴きたいし、歌手の森山加代子に六年七組の同級生の吉野静枝が重なって幼くも恋心を抱いていたのだ。そのうち大人のコメディアン(渥美清、谷幹一ら)や歌手(坂本スミ子、坂本九ら)や俳優たちのコントが面白くなって子供にとっては深夜の時間帯だったのにゲラゲラと笑っていた。
おぼろげな記憶から少しずつ輪郭がはっきりとしたのは、ジェリー藤尾逝去の報である。1960年頃、すでにバンドボーイだった彼はエルビス・プレスリーの「ハウンド・ドッグ」を歌いジャズ喫茶をにぎわしていた。ただ当時から良からぬ噂が付きまとっていた。映画にも出演していてハーフ(父は日本人、母はイギリス人)の優しい顔立ちだのに、不良少年のように見えた。当時は確かに愚連隊の用心棒と呼ばれていた。池袋や新宿の繁華街で辺りに眼(ガン)を飛ばし、目を合わせばカツアゲされそうな不良性感度が漂っていた。喧嘩っぱやく悪名が先だっていた。1961年公開の映画『ウエスト・サイド物語』でジョージ・チャキリスと戦う不良軍団ジェット団のリーダー・リフ役のラス・タンブリンとも重なった。
そのジェリー藤尾が件のバラエティ番組で「遠くへ行きたい」を歌った。不良のくせに悲しげな作り顔がはじめはワザとらしいと笑ったが、しばらくして彼の出自が徐々に分かってくると、遠くへ行きたいと叫ぶ歌声にしみじみとして涙がにじんだ。同時にヒットした「ダニー・ボーイ」を歌う悲しげな表情も忘れられない。戦後、中国上海の租界地からイギリス人の母と日本へ引き揚げてきたが、間もなく母親は言葉の壁もあり孤独感からアル中になって死ぬ。混血児は〝合いの子〟と蔑称された時代、いわれなき差別に苦しんだに違いないジェリーがグレるのも、無理はなかった。